櫂 (東映京都1985年) 第七回 / マカオの竜
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櫂 (東映京都1985年) 第七回
五社英雄が当時の東映岡田社長に監督復帰を誘われた際に、まっ先に映画化を望んだ原作が「櫂」であること、これは宮尾登美子作品の中でも夫婦の愛憎劇をテーマとしていたことが理由になることに尽きるとおもう。自身の家庭の崩壊が、責任が己にあったにせよ、相手にあったにせよ、深い悔悟の念に支配されていたことをひしひしと感じるのだが、それはけして刺青を彫る心境と無縁ではなかった、そうおもうのである。一般に芸術家は自己顕示欲の塊と言われる。そうでなければ逆に人を感動に導く多くの芸術は生れるものではない。五社英雄もまた自己顕示欲が凄まじい、映画芸術に長けた監督ではなかっただろうか。完成映画としての欠点は幾らでもあげえるが、そこに到達するダイナミズムに支配された作品の生理が持ち味だったことを考えれば、けしてそれはまた欠点となりえず、逆もまた真なりである。
東映宮尾登美子原作による三部作は「櫂」をもって終息する。女衒という特殊な職業を持つ主人公夫婦の愛憎こそが、自身のテレビドラマと映画作りという、これもまた特殊な職業による自身の夫婦生活に重ね合わせた愛憎劇として惹かれたゆえに、「櫂」を作り終えれば終息するも必定であった。それには高田宏治という東映きってのドラマ作りに長けたシナリオ作家の存在があってのこと、これもまた真実であろう。五社が「櫂」の脚色第一稿に頭をかかえたという高田の告白は、映画作りの過程において監督の立場とおもいを如実に示しているものであろう。
◎五社さんは口ではしばしば悟りきったようなことを言うが、わりと、ジタバタするお人だから、企画者の奈村君かどは慌てふためいて、日下部御大に、大変です。監督が大直しだと言うてますとご注進に及んだらしい。だが、二日後の本読みでは、五社さんは、安心して、ダブルベッドに大の字になって高鼾で寝ていた。
(月刊シナリオ 1985年2月号 134頁
「櫂」創作ノート 映画づくりの魔性に翻弄されて 高田宏治)
高田はシナリオ作りの際ハコ書きを作らず、話を欲張るせいでまとまりのない第一稿になるとするも、二稿では商品価値を三倍にする自信を持っているという。だから、
◎あの大騒ぎも、五社さんの、この仕事にかける意欲のポーズであったかも知れない。
(同書 134頁)
と、ここに書かれたさらりとした文以上の騒動があったことを感じさせることを語っている。しかしこれこそが、五社英雄の意気込みが現れた話しとして受けとめるのである。それゆえに高田のシナリオこそが、映画「櫂」の根幹を成すものとして捉えているのである。では夫婦の愛憎とは何か。これは岩伍(緒方拳)が喜和(十朱幸代)に綾子(高橋かおり)を戻せと迫り離縁を言い出すも、本心は戻ってきてくれと願う心の裏返しにあるとおもう。このおもいは、結末部の綾子をひとり行かせる場に続くシーンで如実に描かれているからである。喜和という女の芯にある強さを窺わせる台詞を見てみよう。これは兄である小笠原楠喜(ハナ肇)と里江(園佳也子)夫婦との間で交されるものからである。
■兄さん、心配かけてすみません、
けんど、あては、あの人に詫びる気は、毛頭ないし、
綾子も、戻しません。
■綾子は、誰が何と言うたち、
あての子です、あての……、
綾子の為やったら、あては、どんな苦労もいといません。
綾子が岩伍が娘義太夫の巴吉に生ませた子であることから、育てることには抵抗していた喜和であった。が、長い歳月はひとの心に変化をもたらし、今は綾子こそが喜和の生きる糧であった。ここにいたるまでの夫婦の愛憎劇をもう少し、台詞から確認をしておきたい。(以下、次回へ)
五社英雄が当時の東映岡田社長に監督復帰を誘われた際に、まっ先に映画化を望んだ原作が「櫂」であること、これは宮尾登美子作品の中でも夫婦の愛憎劇をテーマとしていたことが理由になることに尽きるとおもう。自身の家庭の崩壊が、責任が己にあったにせよ、相手にあったにせよ、深い悔悟の念に支配されていたことをひしひしと感じるのだが、それはけして刺青を彫る心境と無縁ではなかった、そうおもうのである。一般に芸術家は自己顕示欲の塊と言われる。そうでなければ逆に人を感動に導く多くの芸術は生れるものではない。五社英雄もまた自己顕示欲が凄まじい、映画芸術に長けた監督ではなかっただろうか。完成映画としての欠点は幾らでもあげえるが、そこに到達するダイナミズムに支配された作品の生理が持ち味だったことを考えれば、けしてそれはまた欠点となりえず、逆もまた真なりである。
東映宮尾登美子原作による三部作は「櫂」をもって終息する。女衒という特殊な職業を持つ主人公夫婦の愛憎こそが、自身のテレビドラマと映画作りという、これもまた特殊な職業による自身の夫婦生活に重ね合わせた愛憎劇として惹かれたゆえに、「櫂」を作り終えれば終息するも必定であった。それには高田宏治という東映きってのドラマ作りに長けたシナリオ作家の存在があってのこと、これもまた真実であろう。五社が「櫂」の脚色第一稿に頭をかかえたという高田の告白は、映画作りの過程において監督の立場とおもいを如実に示しているものであろう。
◎五社さんは口ではしばしば悟りきったようなことを言うが、わりと、ジタバタするお人だから、企画者の奈村君かどは慌てふためいて、日下部御大に、大変です。監督が大直しだと言うてますとご注進に及んだらしい。だが、二日後の本読みでは、五社さんは、安心して、ダブルベッドに大の字になって高鼾で寝ていた。
(月刊シナリオ 1985年2月号 134頁
「櫂」創作ノート 映画づくりの魔性に翻弄されて 高田宏治)
高田はシナリオ作りの際ハコ書きを作らず、話を欲張るせいでまとまりのない第一稿になるとするも、二稿では商品価値を三倍にする自信を持っているという。だから、
◎あの大騒ぎも、五社さんの、この仕事にかける意欲のポーズであったかも知れない。
(同書 134頁)
と、ここに書かれたさらりとした文以上の騒動があったことを感じさせることを語っている。しかしこれこそが、五社英雄の意気込みが現れた話しとして受けとめるのである。それゆえに高田のシナリオこそが、映画「櫂」の根幹を成すものとして捉えているのである。では夫婦の愛憎とは何か。これは岩伍(緒方拳)が喜和(十朱幸代)に綾子(高橋かおり)を戻せと迫り離縁を言い出すも、本心は戻ってきてくれと願う心の裏返しにあるとおもう。このおもいは、結末部の綾子をひとり行かせる場に続くシーンで如実に描かれているからである。喜和という女の芯にある強さを窺わせる台詞を見てみよう。これは兄である小笠原楠喜(ハナ肇)と里江(園佳也子)夫婦との間で交されるものからである。
■兄さん、心配かけてすみません、
けんど、あては、あの人に詫びる気は、毛頭ないし、
綾子も、戻しません。
■綾子は、誰が何と言うたち、
あての子です、あての……、
綾子の為やったら、あては、どんな苦労もいといません。
綾子が岩伍が娘義太夫の巴吉に生ませた子であることから、育てることには抵抗していた喜和であった。が、長い歳月はひとの心に変化をもたらし、今は綾子こそが喜和の生きる糧であった。ここにいたるまでの夫婦の愛憎劇をもう少し、台詞から確認をしておきたい。(以下、次回へ)


