カンフー・ミューズ、リウ・イーフェイに注目!「ドラゴン・キングダム」 / 幻巌堂
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ストーリー、カンフーアクション、特撮、美女と、どれをとっても文句のつけようのない一級娯楽作品だ。ただ、以下の2点を除けばだが。ひとつは主人公を演じたマイケル・アンカラーノの魅力のなさ。そしてもうひとつは、なぜか主人公まわりだけの英語台詞。マイケルは、子役出身特有のひ弱さというか頼りなさが常につきまとっており、武術修業の後にも精悍さが一向に出てこない。だからカンフーアクションの場面での説得力がまるで感じられないのだ。大きなキャスティングミスだろう。そして英語の台詞。これは、英語圏公開がメインのハリウッド製作のご都合主義なのだから、いくら異を唱えても暖簾に腕押し状態なのだろうが、どうせならすべて英語にすればいいのに。
いじめられっこの少年が行きつけのチャイニーズ雑貨店で如意棒を手にし、唐突に現代アメリカから古代中国へタイムスリップ。絶対権力を振るうジェイド将軍に騙され、石像に閉じ込められた孫悟空に、如意棒を返して平和な世を取り戻すため、3人の勇士とともに将軍に立ち向かう旅に出るというお話。タイムスリップそのものは、味も素っ気もなくとってつけたような展開だが、そんなことはほとんど気にならない。旅をともにする3人の勇士については、それぞれキャラクターそのものに、細かな伏線が敷かれており、多少の突っ込みどころはあっても納得だ。なによりも、酔拳で登場するジャッキー・チェンと、少林寺をほうふつさせる僧の姿で登場するジェット・リー(途中訪れるお寺の修行僧たちは「少林寺」そのもの)の存在感に圧倒される。これに対し紅1点のゴールデン・スパロウを演じるリウ・イーフェイのソリッドでキレのあるカンフーアクションも負けていない。清潔感あふれる可憐さも極上だ。
アクションシーンでは、「グリーン・ディスティニー」や「HERO」「LOVERS」などにみられた様式美はないものの、ワイヤーアクションにVFXを巧みに融合させた戦闘シーンは実に見ごたえがあり、映像の新たな方向性として、評価に値するできにある。ストーリーやキャラクターには、裏読みするような恣意的なところは感じられないし、とにかく2大カンフーアクションスターが共演する娯楽大作として素直に楽しめることのできる作品だ。
2008年7月18日(金) at 15:09
阪本+藤原コンビで、ぜひもう1作。「カメレオン」 / 幻巌堂
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黒澤満プロデュース・丸山昇一脚本とくれば松田優作の「処刑遊戯」や「野獣死すべし」を思い浮かべてしまうが、当時、丸山が優作のために書いた本となればもう四半世紀以上も前ということになる。何故映画化されなかったのかは不明だが、政治の裏がらみの内容が当時の東映岡田社長に嫌われたのかもしれない。
この作品を東映セントラル作品の延長線上で語りきって切り捨ててしまうのは、片手落ちというものだ。監督が村川透から阪本順治に替わったことで、東映セントラルカラーが大きく変色しているからだ。日活出身の村川が日活ニューアクション色を感じさせなかったにもかかわらず、阪本演出は、ニューアクションからロマンポルノへ移り変わる時期の日活作品へのオマージュが色濃い。特に、藤田敏八の諸作品「野良猫ロック」「新宿アウトロー」「赤い鳥逃げた」あたりをほうふつさせるシーンが少なくない。
少年院から傭兵、マフィアという経歴の野田伍郎(藤原竜也)は、当然のようにまっとうな道は歩めず、仲間との結婚詐欺で日々をしのぐ。街で出会った無気力な占い師小池佳子(水川あさみ)が仲間に加わるが、そんなある日結婚式場の駐車場で奇妙な拉致現場に出くわす。その日から伍郎と仲間たちは、不気味な集団に付け回される。それが闇の国家権力組織と知った伍郎は、単身組織に乗り込み手打ちを試みるが、仲間の1人が金目当てに目撃情報をテレビ局に売り込んでしまい、泥沼へ。1人また1人と仲間が消されてゆく。そして、組織に復讐の戦争を挑んだ伍郎だが…。
松田優作と比較されることを承知で五郎役に挑んだ藤原竜也に、まずはその心意気に拍手を送りたい。あまり役者をほめない阪本監督が賞賛した記憶力と優れた運動神経で、予定の半分の時間で終了したというアクションシーン。確かに切れ味はいい。ラスト近くで見せる絶叫シーンでの、いっちゃったような切れた目つきは恐ろしいほどで、じゅうぶんに爬虫類(カメレオン)的でもある。相手役を演じる水川あさみも悪くないが、エロティックなシーンが全くないのが作品としては寂しすぎる。阪本演出の弱点はここに尽きる。
カリスマ俳優として松田優作をリスペクトすることに、私は何ほどの異も唱えない。しかしながら、この映画を松田優作の作品であるべきものとして語ることには、大いに疑問を感じる。これはあくまでも阪本順治と藤原竜也の出会いの作品であり、その意味ではじゅうぶんに満足のできる仕上がりだと思う。傷ついた2人が街をさまよい歩くラストシーンには、藤田敏八作品への限りないオマージュに彩られている。
2008年7月18日(金) at 12:54
蒼井優は、どんどん大きくなっている。「百万円と苦虫女」 / 幻巌堂
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短大は出たけれど定職に就けないまま、実家のある東京でレストランのアルバイトの日々を送る鈴子。同僚と賃貸マンションを探し家を出たものの、知らぬ間になぜか同僚に振られた男とのルームシェア生活。そしてあることが原因で同居男から訴えられ前科者になってしまう。なんとも理不尽にハンディを背負わされ、家族からもお荷物扱いの鈴子はまだ21歳。自分という存在をできる限り消して生きるために、旅に出る。そのために鈴子が考えた条件は、百万円貯まったら場所を変えて生きるということ。
海の家のアルバイトではお好み焼きの名人と言われ、山の農家では桃もぎのために生まれてきた人と言われ、彼女の意思とは裏腹に、どこへ行っても一生懸命に働けば確実に存在感が生まれる。同時に、人の温かさに触れることで、確実に地に足がついてゆく鈴子。ところがどこへ行っても百万円が貯まる前に、問題が生じて出て行かざるを得なくなってしまう。そして東京近郊の町のホームセンターで、アルバイトの先輩の大学生と初めての恋。鈴子にとって旅に出て初めての、仕事以外に夢中になれる出来事であり、愛・信頼・ジェラシーといった感情を芽生えさせるものだった。
主人公鈴子はもともと落ちこぼれなのだが、さらに下へ蹴落とされた若い女性。格差が広がり、理不尽がまかり通る現代社会の象徴ともいえるフリーターである。そんな彼女が始めるのは、流行の自分探しなどではなく、存在感を消して生きるいわば自分無色化の旅。ところが旅を続けるうちに自分という存在が着実に見え出してくるのだ。このあたりを、タナダユキは、自分探しブームへのアイロニーを持って描いてゆく。それは一見醒めているようでいて、時に痛快ですらある。全編を通して、常に下からの眼線で描かれながらも、そこには微塵の卑しさもなく、私も同じ人間であるという強烈なプライドに貫かれているというのが、見事だ。
鈴子の行動の中では、手を繋ぐという行為が、大きな意味を持って描かれる。弟と、そして恋人となる大学生と。前科をもらった鈴子は強い。街で出会った同窓生グループにいじめられても、正面から立ち向かう。そんな姿を見て、姉を恨んでいた弟が、その存在を認める。家への帰り道の公園で手を繋ぐ2人。心に姉弟の絆が結ばれる。その絆の強さと温もりを、鈴子が旅先から弟へ出す手紙に込めて見せる演出が絶妙だ。また、アルバイトの帰り道、自転車で追いかけてきた大学生からの告白。互いに意識し合っていた心が結ばれる瞬間だ。ゆっくりと手を結ぶ2人。この2つのシーン、ともに心の喜びがあふれ出したような手の繋ぎ方がいい。スクリーンいっぱいに暖かな温もりが漂い出してくる。
タナダユキの脚本は、蒼井優という女優にひかれ、彼女をあて込んで書いたものだという。鈴子というキャラクターはもちろん、そのファッションから歩き方まで、実に丹念に書き込み描き出しており、スクリーン上の鈴子は、まるで蒼井優と相似形を成しているようにさえ思われるほど。それに応えるかのように、カットカットで奔放なまでに変化を見せる蒼井優の表情と、一貫して醒めた調子を変えない台詞をなんと評せばいいのか。とにかくその存在感は圧倒的だ。彼女を受ける森山未来の適度に乾いた感じも捨てがたい。ラストの追いかけも、押し付けがましい爆発感のないところがナチュラルでいい。
この作品は確実に今の青春映画だが、現代の日本社会のどうしようもない一面を描きながらも、最後の最後に捨てたもんじゃないと思わせてくれるところは、少なくとも評価に値する。百万円という現実的な記号よりも、人の心の中にはもっと大切なものがあるというスピリチュアルは、時代を経ても色褪せることはないだろう。小品だが、心に残る秀作だ。


