長野を聖火リレーが通る前に 報ステからの感想 / bouzu
ニュース・芸能 > 総合ニュース
長野の聖火が走る前に
昨日の報ステ後に書きなぐったものをのっけときます。
テレ朝の報ステで、先日あのコメンテーターが
オーストラリアでの聖火の件について
日本も東京五輪のときについに仲間入りだと思った
そういうことを考えてほしいという話をしていたが
一見、そういう考えも、と思ってしまう話だが、なんだそれ!?にもほどがある。
戦後の混乱期、かつある一定の世界秩序(まあこの場合は欧米主義といってもいだろうが)
の中で、敗戦国である日本の復活と世界基準への帰順という側面でそういえるでしょうが
今回の五輪に対して、その『昔日本もそうだった』というのは、はっきり言って愚かしいと思えてしまう。
現在の価値基準への仲間入りでなく、自国の利益と存在価値の誇示。
今回のチベット問題かつ、報道への中国人民の反発と、各国での行い
また、オリンピックの聖火が、たとえ各国のエゴの平和的誇示の祭典としても
今回の件は以上であると思えますし、正気の沙汰ではないとさえ私は言います。
その件に対して
『日本も昔はそうだった』
という論調は、問題の本質を無視し、ある一定の価値基準や国家に対しての
媚か思考停止、自分の主義主張のための論点ずらしとしか思えませんね。
そのくせに、税金や自国国家のことならこれでもかと追及する。
その姿勢には、『この人はどんな問題を解決したいのだろうか?』
と、主義主張への疑問すら当然のごとく沸き起こります。
ときとして日本の人権や理性派の人たちが
突っ込みを入れやすくない世界の人権問題や
国内の諸問題に対して、まったくその口を閉ざし
見てみぬふりをするのは、わかりきった姿ですが
時として思う
『改善を願う傍観者』
の害悪というもの。
日本には傍観者が多すぎる。
理性的で、正しいようなことを言いながらも
けっきょく責任もそれによって不利益をこうむる人、時として国民にも
責任を持たず、あくまで自分は離れた位置からそれを見て
本人はまともな顔で、冷たい目で見ている傍観者。
冷静な判断というものは、当然必要でありますが
今回の五輪の件で、かつ彼の発言から、特にそれを思った私です。
昨日の報ステ後に書きなぐったものをのっけときます。
テレ朝の報ステで、先日あのコメンテーターが
オーストラリアでの聖火の件について
日本も東京五輪のときについに仲間入りだと思った
そういうことを考えてほしいという話をしていたが
一見、そういう考えも、と思ってしまう話だが、なんだそれ!?にもほどがある。
戦後の混乱期、かつある一定の世界秩序(まあこの場合は欧米主義といってもいだろうが)
の中で、敗戦国である日本の復活と世界基準への帰順という側面でそういえるでしょうが
今回の五輪に対して、その『昔日本もそうだった』というのは、はっきり言って愚かしいと思えてしまう。
現在の価値基準への仲間入りでなく、自国の利益と存在価値の誇示。
今回のチベット問題かつ、報道への中国人民の反発と、各国での行い
また、オリンピックの聖火が、たとえ各国のエゴの平和的誇示の祭典としても
今回の件は以上であると思えますし、正気の沙汰ではないとさえ私は言います。
その件に対して
『日本も昔はそうだった』
という論調は、問題の本質を無視し、ある一定の価値基準や国家に対しての
媚か思考停止、自分の主義主張のための論点ずらしとしか思えませんね。
そのくせに、税金や自国国家のことならこれでもかと追及する。
その姿勢には、『この人はどんな問題を解決したいのだろうか?』
と、主義主張への疑問すら当然のごとく沸き起こります。
ときとして日本の人権や理性派の人たちが
突っ込みを入れやすくない世界の人権問題や
国内の諸問題に対して、まったくその口を閉ざし
見てみぬふりをするのは、わかりきった姿ですが
時として思う
『改善を願う傍観者』
の害悪というもの。
日本には傍観者が多すぎる。
理性的で、正しいようなことを言いながらも
けっきょく責任もそれによって不利益をこうむる人、時として国民にも
責任を持たず、あくまで自分は離れた位置からそれを見て
本人はまともな顔で、冷たい目で見ている傍観者。
冷静な判断というものは、当然必要でありますが
今回の五輪の件で、かつ彼の発言から、特にそれを思った私です。
2008年4月25日(金) at 20:22 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
トラックバックURL http://blog.kansai.com/tb/haraheri/885
このエントリ(記事)について
コメントを書く
記事を書く(トラックバック)
このエントリ(記事)にコメントを書く


