徒手空拳で書くブログ。

最近は広告について書くことが多いなあ。

HOME > 2008年3月

抽象的思考に飛ばず、具体的世界にとどまること / けんちー

HOME > myblog
何年か前に流行した、「人を殺したかった」という事件がまた頻発してるらしい。テレビも新聞も見ない日々が続いていたから知らなかったけれど、電車のホームで人を突き落としたり、ナイフで人を切りつけたり、そういう事件が起こっていたらしい。

おれは、個人的には、そいう気持ちも分からないではない。

「生きてる」ってすごく不思議なことやし、自分の手で人を殺すっていうことで何かその不思議に迫ることができるかもしれないと思うようなことを、非道なことであるとおれは一方的に責めたりしない。現に昔の人は、カエルのお尻の穴にストロー突っ込んで膨らませたりしていたわけだし。

でも、人を殺すというのは抽象的な「人」を殺すわけではありえないということを、今日泣き崩れる遺族の姿をニュースで見て、改めて強く思った。「人」を殺すというのは必ず、それまでの人生を生きてきた具体的な「誰か」を殺すということなのだ。

「花の美しさなどない、美しい花があるだけだ」と小林秀雄って昔の偉い人が言ってたらしいんだけど、とても深みのある言葉だなあと思う。
(調べてみると、正しくは「美しい『花』がある、『花』のうつくしさといふ様なものはない」(當麻)であった)

ある具体物に根付かない観念など存在しないということ、つまり、どのような観念も具体を離れては実体のないただの空論でしかないことを言い表した言葉なのだと思う(前後を読んでませんで、確かではないけれど)。

「人を殺したかったんです。」
「誰を殺したかったの?」
「いや、誰とかでもない『人』を殺したかったんです。」

捕まった少年と、彼が犯行に及ぶ前にもし話すことが出来たなら、と考えてみるんだけど、上のやりとりのようにそれはどこにも着地しないやりとりになったろうと思う。

大人になる前のある時期には、どんな具体にも汚れていない抽象物を夢見ることがあるとおれは思う。というか、まだそういう夢を捨てきれないでいる部分も自分にはまだある。

だけど、ぐっとこらえること。
少しの想像力を働かせること。

そういうことがきっと、毎日を地道に生きていく上では必要なんだと思うな。
って、なんか大人になっちゃったな、おれ。
2008年3月30日(日) at 23:24 

二次的情報による二次的人気 / けんちー

HOME > myblog
この前書いた記事で、本の帯文について書いたんだけれど、ちょっと書き足りない気がして、また書く。

この前の記事(http://blog.kansai.com/iroiro/48

本の帯文に有名人の感想があったり、(最近は見なくなったけど)映画のテレビCMで素人が感想を言ってるのとか、本当にやめて欲しい、とおれは思う。そこには、その商品なり作品が持つ本当の実力が何も見えないからだ。

いま、メディアをにぎわす人気あるものは「人気があるから人気がある」ような気がする。言葉にするとややこしいし、バカらしいけど、そうなのだ。
つまり、人気があるのは、人気を裏付ける根拠があるはずなんだけど、それがなくなってきてるということ。

こういうことはまあ、昔からあるのはあったのだと思う。
たとえば、ある街にお菓子やさんがあって、そのお菓子屋さんはちょっと他のお菓子やさんよりもおいしいということがあるときに、少しずつ固定客もついて、人気も出てくる。もしかしたら、いつの間にか行列もできるかもしれない。そして、それがある程度大きくなると、「この店のお菓子は一回も食べたことはないけれど、いつも行列ができてるし、おいしいだろうからおれも買ってみよう」ってな人も出てきたりしたと思う。

こういうことは今でもよくあることだ。
つまり、実力が人気を呼び、その人気がさらなる人気を呼ぶということ。

だけど、最近目に付くのは、人気は見えるんだけど、じっと見てもその人気の後ろに実力が見えないということだ。

それは特にテレビで顕著で、面白くもなんともないけど、よく見るタレントとか、別に何の学識もないけど偉そうにニュースに対してコメントしてる人とかいっぱいいる。ああいう人って、なんかのきっかけでテレビに出だして、そしていつの間にかすごいスピードでその露出量を増やしていく。

もちろん最初に走り出すときに、少しの実力はあるのかもしれない。でも、それはメディアによって何倍にも強化され、幻の人気が回りについていき、そして、加速度的に彼の人気は高まっていく。そして結局、どこがそんなにいいのか分からないけれど、彼すごい人気らしいね、となるのだ。

えーと、なんというか、おれはこんな、みんなが既に何となく思っている風潮を改めて声高に糾弾したいわけじゃないんだよ。

ただ、こういう事態を当たり前のように受け止めてしまうことはあまりよろしくないのじゃないかといいたいのである。
だって、そうじゃないと、「実力」なんてどうでもいいことになってしまう。

素晴らしい映画でも人気がなければクソみたいな扱いしか受けなくて、クソみたいな内容の音楽でもみんなから人気があるというだけで絶賛するようなのはやっぱりダメだと思う。
全てが、「評判」という不特定多数の漠然とした意見の総体によって左右されるというのは、不健全だし、怖いことだ。

こうだくみ(漢字わからん)が、いくらひどいことを言ったとしても、彼女の人気が、「いい歌を歌う」という実力に根ざしていたのならば、あるひとつの発言だけで社会的に抹殺するというような行為はちょっとおかしいんじゃないか、とおれは思う。彼女が言ってしまったひどい言葉は、それ自体はよろしくなかったかもしれないけれど、彼女の実力を否定はしないじゃないか(あ、別におれがこうだくみの歌を認めているということではないけれど)。しかも、謝罪もして、意図して発言したものではないといっているわけだし。

他にも例を挙げれば、どこの馬の骨か分からない人間を、人気があっておもしろそうという理由で自治体のトップに選んでしまうようなことはやめた方がいいと言っているのである。

おれが身を置いている広告業界というところは、嘘でも幻でも、商品が売れるためならば何でも利用するところである。
「マーケティングの結果、ターゲットとなる層にはマイナスイオンというキーワードが響きますね」ということになれば、いくらマイナスイオンなんて嘘っぱちだと思っていても、それを使って広告を作ることになるのだ。

本当にうんざりなんだけど、こういう流れに対抗できるのは、「いいものはいい、わるいものはわるい」ときっちりと確かな基準を自分の中に打ち立てることだけなのだろう。

もちろん、みんなこんなことはぜーんぶ分かった上で、面白いからやっているのかもしれない(多分そうなのだろう)。別にこうだくみの歌なんてどーでもよかったし、大阪の政治がどうなろうとしったことではなかったから、どうせなら面白い方に転がるように、みんなの流れに乗っていただけなのかもしれない。

でも、そんなことばかりしていると、最後に自分が痛い目を見る結果になるんじゃないかと、おれは思うのである。
2008年3月30日(日) at 17:30