徒手空拳で書くブログ。

最近は広告について書くことが多いなあ。

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Perfume『GAME』は懐かしい。特に、昔の男子中学生には。 / けんちー

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最近、Perfumeの『GAME』というアルバムがヘビーローテーションなのである。

ゴスロリを身にまとったアイドル風の女の子たちがテクノを歌うということを何かで見聞きして、それを雑誌『CONTINUE』が特集するということであるというので、雑誌とともにアルバムを手に入れた。『CONTINUE』はサブカルチャーを主に扱う雑誌なのだけど、扱う題材がいつもいつも的を得ているので、これで扱われるのならば、聴く価値ありということなのである。

聴いてみると、なんだか懐かしくてどうしようもない。

別におれはテクノとかアイドルに昔ハマッた経験があるとか、そういうわけではないんだけれど、なぜか聴いていると中学生のときのころの思い出が走馬灯のように頭をよぎるアルバムである。

なんでだろうか。

おれが中学生のころというのは、1990年代の後半で、それってつまりは世紀末だったということだ。もちろん、ノストラダムスの予言どおりに、新しい世紀が来る前に世界がなくなると信じていたわけではないけれど、だからといって、このまま順調にカレンダーの日付が2000年になるというのもうまく実感できなかった。中学生が大人になる自分をうまく想像できないのに加えて、世界がこのまま進んでいくという実感もうまく持てなかった。

そういう時期にちょうどおれたちを取り囲んでいたのが、『ファイナルファンタジー7』とか『エヴァンゲリオン』であって、つまりおれたちは、このままどこへも行けないダルい日常と、未来をすっ飛ばした超未来の狭間で毎日を過ごしていたのだ。

加えて、おれがいたのは男子校だった。
教室にいるのは、暑苦しい男子中学生と公立を定年で辞めた後に赴任してくるおじいちゃんの教師だった。だけど、机の下で隠し読むまんが雑誌の表紙では、素敵な女の子が笑顔を振りまいている。ここにもおれたちの周りの現実と、理想の世界との間には深いギャップがあり、理想は現実との距離によってより美しいものに見えた。

Perfumeの音楽は、テクノという音楽性において「未来」的なものを、歌っているのがかわいい女の子であるということで「非男子校」的なものを、無意識におれに感じさせるのではないだろうか。
中学生だった頃のおれが切に願っていたものを、体現していることで、Perfumeはおれに、懐かしさを感じさせるのだ、とこうして考えれば納得する。

というか、単に、歌詞が切ないだけかもしれない。

アルバム9曲目の『シークレットシークレット』という曲がすごくよいです。
2008年4月30日(水) at 01:39 

人間の人間性と非人間性について / けんちー

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オーストリアで起こった事件が世界に衝撃を与えている。
テレビは見ていないのでわからないが、BBCでは昨日からずっとトップニュース扱いのままであるので、その衝撃の大きさが計り知れる。

この事件の内容は、父親が娘を24年間にわたって窓のない地下室に監禁し、性的虐待を加え、7人もの子供を産ませていたというものだ。この娘とその子供たちは24年間、一度も地下室の外に出たことがなかったという。

常軌を逸する事件はいつもそうであるように、文字にして目にしてみると、その異常さに鈍感になってしまうが、少し想像力を働かせてみるだけで、これがどれだけありえないことかすぐ分かる。BBCのサイトにあった写真を見ると、まるで虚構のように感じられる数字が、実態を持った確かな現実であったことをまざまざと感じさせられる。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/7371043.stm?

人間はどこまで非人間的になれるのか、どこまで非人間的であることが人間的であるのか、ということを再び問いかける事件になることは間違いないと思う。

再び、というのは、世界は既に一度、人間の人間性について厳しく問い直させられる事件に直面しているからだ。アウシュビッツのホロコーストがそうだ。

アウシュビッツは日本で扱われるような歴史のたんなる一事件ではない。人間は理性をもった善なるものとして、よりよいものになるべく歩みを進めていると考えられていたヨーロッパにとって、それは自らの無垢性を突きつけ、厳しく糾弾する大事件だった。研究が進むにつれ、アウシュビッツは、狂った異常集団が起こした特異な事件としてではなく、人は状況によっては想像を絶するような非人間的な行動をも起こしうるということに目を向けざるを得なくなった。ヨーロッパは、アウシュビッツ以前と以後でまったく違った態度で人間性を見つめ直すことになったのだ。

ヨーロッパに留学して気づいたが、アウシュビッツは過去の事件ではなく、まだ生々しく人々に残っている。政治のニュースにも、まだドイツの誰が謝罪したということが言われるし、アウシュビッツ関連の本はいくつもいくつも出版され、なにより大学で哲学を勉強していると、アウシュビッツの話題をさせて通ることはできなかった。出典は不確かだけれど印象的だった言葉は「我々は、もうアウシュビッツ以前に戻ることはできない」というものだ。もう我々は、人間がこれほどまでに非人間的になれることを知ってしまったということだ。

今回のオーストリアの事件もまた、ひとつのアウシュビッツになると思う。アウシュビッツが集団の狂気だったのとは違い、たった一人の人間が個人としてここまで非人間的な事件を起こせるのを我々は眼にしてしまった。

非人間性と何度も書いた。しかし、人間の人間性とは、一方にある非人間性をも含めてのものだとしたら、アウシュビッツのように、我々は、この事件も自分たちの中の人間性が起こした事件としてきちんと見つめる必要があるだろう。

人間性の限界をいやおうなしに見つめ直させた転換点として、今回の事件は長らく記憶されると思う。
2008年4月29日(火) at 12:46