年を重ねることは自分が動くというよりも、周りがいつのまにか動くのに近い。自分は同じ場所にいるつもりでもいつのまにかそれは同じ場所ではないのだ。 / けんちー
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今日、突然メールが入り、京都に呼び出される。
友達が東京に帰るというので、送別会をするということだった。
東京に帰る友達とは、この3月まで京大8回生をしていた友達で、彼とは、2回生から3回生のときは毎日のように無駄な時間を過ごした。もちろん彼だけではなくて、大学のすぐ近くに借りていたおれの部屋には常に誰かが入り浸り、漫画を読むか、ゲームをするか、麻雀をするか、新聞かエッチな本を読んでいた。
おれは風呂に入るときも、誰かが来たときに困るからと部屋の鍵を開けっ放しにしていたことは、いつもある友人がおれの常識外れを表現するときに使う事実であるが、本当にそれくらい、いつもおれの部屋には誰かが遊びに来ていた。自分の部屋にいるよりも、おれの部屋にいる時間の方が長いというやつもいたくらいだ。
おれが借りていたのは、3階建てのアパートの1階部分で日当たりはあまりよくなかったけれど、一人暮らしの部屋にしては珍しく2部屋からなり、畳敷きで掘りごたつが真ん中に鎮座する和室にはみんなが寝そべりながら漫画を読み、折りたたみ式の食事テーブルが置いてある洋室ではみんながひじをついてゲームをしていた。
男ばかりが遊びに来るのでろくに掃除もしなかったけれど、サークルの運営会議のために、アイドル的な存在であった、えりっぺとまっきーが来るというときにはトイレを掃除し、ぴかぴかになった便器を見て、訪れる友人たちは笑ったものである。
よなよな麻雀をして、目覚めたときには既に「笑っていいとも」が終わっていたときの切ない感じは、今でもはっきりと思い出せる。午後に起きただけで、その一日が台無しになったような気分になるのだ。
いくつかの講義のために大学に行き、また夕方になるとどこからともなく友達が集まってきた。そして、また楽しい夜が始まるのである。
今思っても、夢のような日々であった。あれほど、非生産的な時間を過ごせたことをおれは誇りに思う。
そして、その夢のような日々は、文字通り、それが夢であったかのようにある時期がくると現実に変わり始める。
みんなさすがに3回生の後半にもなると真面目に大学に顔を出さなければならなくなるし、就職活動も始まる。結局おれは、4回になると同時に、カナダに旅立ち、みんなが集まった部屋も引き払った。みんな、冗談半分に、お金を出し合うから部屋は残しておいてくれといったのだが。
こうして思い出すとたった1年と少しくらいか。でも、毎日があまりにも濃くて、おれの大学時代のほとんどはその時期の思い出であるような気がする。
みんな就職していく中、今日見送りに行った彼だけが学部に残り、未来に悩みつつ、時間を過ごしていた。彼がいるからこそ、京都にいけばいつでも居場所があると思っていたおれは、これで本当にそのよりどころがなくなってしまったかのように思う。
送別会は5人。おれと彼ともう一人の同学年の友達。それにおれはあまりしらない彼の後輩2人。
彼とは1年くらい会っていなかったし、仕事帰りのおれは一人スーツ姿でなんだか場違いだった。でも、少し話せばお互いにの距離感や呼吸は思い出す。おバカな話をしているとあっという間に時間は過ぎる。
夜行バスで東京に戻る彼は、まだこれからの進路は決まっていない。握手を交わして、おれたちは別れる。
いつまでも、彼を京都に縛り付けていたいわけでもないけれど、それに彼がいてもいなくても実際には何も変わりはしないのだけれど、彼がいなくなった今では、近かった京都がとても遠い場所のように思える。
まるで、昨日のように思う日々は、おれにとってはまさに昨日のことのようだけれど、おれたちがいたあの場所にはもう他の誰かがいるのだ。
自分の中で、1つの時代が終わったような気がする。
京都から大阪へ向かう快速電車の、窓の外に見える景色は真っ暗をじっと眺めていると、おれはそれがどこに向かう列車なのか思い出せなくなるのだった。
友達が東京に帰るというので、送別会をするということだった。
東京に帰る友達とは、この3月まで京大8回生をしていた友達で、彼とは、2回生から3回生のときは毎日のように無駄な時間を過ごした。もちろん彼だけではなくて、大学のすぐ近くに借りていたおれの部屋には常に誰かが入り浸り、漫画を読むか、ゲームをするか、麻雀をするか、新聞かエッチな本を読んでいた。
おれは風呂に入るときも、誰かが来たときに困るからと部屋の鍵を開けっ放しにしていたことは、いつもある友人がおれの常識外れを表現するときに使う事実であるが、本当にそれくらい、いつもおれの部屋には誰かが遊びに来ていた。自分の部屋にいるよりも、おれの部屋にいる時間の方が長いというやつもいたくらいだ。
おれが借りていたのは、3階建てのアパートの1階部分で日当たりはあまりよくなかったけれど、一人暮らしの部屋にしては珍しく2部屋からなり、畳敷きで掘りごたつが真ん中に鎮座する和室にはみんなが寝そべりながら漫画を読み、折りたたみ式の食事テーブルが置いてある洋室ではみんながひじをついてゲームをしていた。
男ばかりが遊びに来るのでろくに掃除もしなかったけれど、サークルの運営会議のために、アイドル的な存在であった、えりっぺとまっきーが来るというときにはトイレを掃除し、ぴかぴかになった便器を見て、訪れる友人たちは笑ったものである。
よなよな麻雀をして、目覚めたときには既に「笑っていいとも」が終わっていたときの切ない感じは、今でもはっきりと思い出せる。午後に起きただけで、その一日が台無しになったような気分になるのだ。
いくつかの講義のために大学に行き、また夕方になるとどこからともなく友達が集まってきた。そして、また楽しい夜が始まるのである。
今思っても、夢のような日々であった。あれほど、非生産的な時間を過ごせたことをおれは誇りに思う。
そして、その夢のような日々は、文字通り、それが夢であったかのようにある時期がくると現実に変わり始める。
みんなさすがに3回生の後半にもなると真面目に大学に顔を出さなければならなくなるし、就職活動も始まる。結局おれは、4回になると同時に、カナダに旅立ち、みんなが集まった部屋も引き払った。みんな、冗談半分に、お金を出し合うから部屋は残しておいてくれといったのだが。
こうして思い出すとたった1年と少しくらいか。でも、毎日があまりにも濃くて、おれの大学時代のほとんどはその時期の思い出であるような気がする。
みんな就職していく中、今日見送りに行った彼だけが学部に残り、未来に悩みつつ、時間を過ごしていた。彼がいるからこそ、京都にいけばいつでも居場所があると思っていたおれは、これで本当にそのよりどころがなくなってしまったかのように思う。
送別会は5人。おれと彼ともう一人の同学年の友達。それにおれはあまりしらない彼の後輩2人。
彼とは1年くらい会っていなかったし、仕事帰りのおれは一人スーツ姿でなんだか場違いだった。でも、少し話せばお互いにの距離感や呼吸は思い出す。おバカな話をしているとあっという間に時間は過ぎる。
夜行バスで東京に戻る彼は、まだこれからの進路は決まっていない。握手を交わして、おれたちは別れる。
いつまでも、彼を京都に縛り付けていたいわけでもないけれど、それに彼がいてもいなくても実際には何も変わりはしないのだけれど、彼がいなくなった今では、近かった京都がとても遠い場所のように思える。
まるで、昨日のように思う日々は、おれにとってはまさに昨日のことのようだけれど、おれたちがいたあの場所にはもう他の誰かがいるのだ。
自分の中で、1つの時代が終わったような気がする。
京都から大阪へ向かう快速電車の、窓の外に見える景色は真っ暗をじっと眺めていると、おれはそれがどこに向かう列車なのか思い出せなくなるのだった。
2008年4月9日(水) at 01:27
一生続くいい気持ち / けんちー
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久しぶりにF1を見る。最近はそれほど熱心に見なくなったけれど、F1はおれが唯一中継を楽しんで見られるスポーツだ。ぐるぐる同じところを周るだけと言われればそれだけなのだけれど、いくら見ていても飽きない。どうして飽きないのか、いくら考えても理由はよくわからない。
F1を見ているとある言葉を思い出した。
「一生続くいい気持ち」という言葉である。
この前の長期休暇のときに読んだ村上龍の本の中の言葉である。
村上龍があるインタビューでF1ドライバーに聞いたらしい。
「F1ドライバーというのは大変な職業だ。1年のうち大半は世界中のサーキットを回ってレースがあるし、レースがないシーズンでも、トレーニングやマシンのテストなどで自由な時間などほとんどない。こんな職業をしていたら、おいしいものをお腹いっぱい食べたり、きれいな女と遊びまわったり、そんな楽しい時間を過ごすことはほとんどできない。それでも、あなたはなぜF1ドライバーという職業を選んだのか。」と。
F1ドライバーは答えた。
「おいしいものを食べたり、きれいな女と遊ぶといい気持ちになれる。でも、もしF1のワールドチャンピオンになったら、一生続くようないい気持ちになるだろう。だから、おいしい食事もいい女も我慢できる」と。
「一生続くいい気持ち」とはどんなものだろうか、と村上龍は思う。きっと自分の満足のいく小説が書けたときにはそれに近いものを感じるだろう。
会社員になると、こういう考え方はできにくくなるだろうなあと思う。長く安定した人生をいつの間にか志向するようになるからだ。
だけど、おれはあくまで「一生続くいい気持ち」を目指す生き方をしたいと思う。
「一生続くいい気持ち」というのを感じるにはどうしたらいいのだろうか。もちろん、そんなことははっきりとは分からないが、間違いなく必要なのは、自分の中の大事なものを譲らないことだろう。
戦いは続く。
F1を見ているとある言葉を思い出した。
「一生続くいい気持ち」という言葉である。
この前の長期休暇のときに読んだ村上龍の本の中の言葉である。
村上龍があるインタビューでF1ドライバーに聞いたらしい。
「F1ドライバーというのは大変な職業だ。1年のうち大半は世界中のサーキットを回ってレースがあるし、レースがないシーズンでも、トレーニングやマシンのテストなどで自由な時間などほとんどない。こんな職業をしていたら、おいしいものをお腹いっぱい食べたり、きれいな女と遊びまわったり、そんな楽しい時間を過ごすことはほとんどできない。それでも、あなたはなぜF1ドライバーという職業を選んだのか。」と。
F1ドライバーは答えた。
「おいしいものを食べたり、きれいな女と遊ぶといい気持ちになれる。でも、もしF1のワールドチャンピオンになったら、一生続くようないい気持ちになるだろう。だから、おいしい食事もいい女も我慢できる」と。
「一生続くいい気持ち」とはどんなものだろうか、と村上龍は思う。きっと自分の満足のいく小説が書けたときにはそれに近いものを感じるだろう。
会社員になると、こういう考え方はできにくくなるだろうなあと思う。長く安定した人生をいつの間にか志向するようになるからだ。
だけど、おれはあくまで「一生続くいい気持ち」を目指す生き方をしたいと思う。
「一生続くいい気持ち」というのを感じるにはどうしたらいいのだろうか。もちろん、そんなことははっきりとは分からないが、間違いなく必要なのは、自分の中の大事なものを譲らないことだろう。
戦いは続く。

