太ったんでないのッ!? (檀ふみ・阿川佐和子) / からな
本 > な行・は行のタイトル本
不思議なもので、人はおいしいものにありつくと、声も動作も大きくなる傾向にあるけれど、納得のいかぬ味に出会うと、概して静かになる。 (「大器バンザイ」p53)
新潮文庫。2007年5月3〜6日。GW中、家での読書に選びました。
このお二方の往復エッセイは、『ああ言えばこう食う』 『ああ言えばこう嫁行く』 に続いて、3冊目。
「そろそろ読みたいなあ〜」と思っていた時に、タイミングよく発売。
しかし「薄いなあ・・・安いなあ・・・」と手にとってビックリ。掲載雑誌が休刊になったため、この薄さになったのか。あららら・・・残念。
通常、何かに目がないという場合、二つのケースが考えられる。すなわち、そのモノに対して大いに造詣深く厳しい場合と、逆に判断がゆるくなる場合である。 (「顰蹙茶漬け」p66)
読んでいて、このお二方の往復エッセイほど楽しめる書籍もなかろう。
テンポも良いし、気持ちのいい毒も効かせているし、オチもある。
薦めるならば、「ただ、読め! 黙って読んで楽しむが良い!」としか薦めようがない。
だから、雑感もこれ以上述べようがない。
贅沢とは、広くて大きいことなのだ。だからダンフミは贅沢を喜ぶのであろう。そう言うと、
「大きいだけじゃないの。贅沢はエレガントでなきゃダメなの」 (「ディッファレント!」p77)
新潮文庫。2007年5月3〜6日。GW中、家での読書に選びました。
このお二方の往復エッセイは、『ああ言えばこう食う』 『ああ言えばこう
「そろそろ読みたいなあ〜」と思っていた時に、タイミングよく発売。
しかし「薄いなあ・・・安いなあ・・・」と手にとってビックリ。掲載雑誌が休刊になったため、この薄さになったのか。あららら・・・残念。
通常、何かに目がないという場合、二つのケースが考えられる。すなわち、そのモノに対して大いに造詣深く厳しい場合と、逆に判断がゆるくなる場合である。 (「顰蹙茶漬け」p66)
読んでいて、このお二方の往復エッセイほど楽しめる書籍もなかろう。
テンポも良いし、気持ちのいい毒も効かせているし、オチもある。
薦めるならば、「ただ、読め! 黙って読んで楽しむが良い!」としか薦めようがない。
だから、雑感もこれ以上述べようがない。
贅沢とは、広くて大きいことなのだ。だからダンフミは贅沢を喜ぶのであろう。そう言うと、
「大きいだけじゃないの。贅沢はエレガントでなきゃダメなの」 (「ディッファレント!」p77)
2007年6月24日(日) at 16:09 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
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ブッデンブローク家の人びと(上巻) (トーマス・マン) / からな
本 > な行・は行のタイトル本
「分割払いとはね! 分割払いというのは、ある人間の支払い能力を試してみる便法ですよ!」 (p297)
岩波文庫。訳者は望月市恵さん。2005年の夏の一括重版で、入手。上巻を読んだのは2007年1月10〜16日。
文庫で全3巻ありますが、一巻ずつアップしていきましょう。
トーマス・マンの作品を読むのは、『ヴェニスに死す』(新潮文庫) を読んで以来。
(余談ですが、ヴェネツィア表記の方が、いいよね。光文社古典新訳文庫で最近発売されたものは、『ヴェネツィアに死す』になっていました)
『ブッデンブローク家の人びと』 を読むきっかけになったのは、これも高村薫さんの作品 『レディ・ジョーカー』(毎日新聞社) を読んだ時。主人公の一人・合田雄一郎さんのある時期の読書遍歴が紹介されていた部分がありました。
なるべく長いやつを選んで、七月には『ブッデンブローク家の人々』と『ユリシーズ』と『大菩薩峠』を読み、八月には『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『チボー家の人々』と続いてきて、まだ五巻目の三分の二が残っていた。 (『レディ・ジョーカー』下巻p264〜265)
ここで私は 『チボー家の人々』 を昨年読破し(←感想記事も、途中で止まったままやん)、『ブッデンブローク家の人びと』 を今年の初めに購読し、『カラマーゾフの兄弟』 を現在買っているわけです。(全巻揃ってから読みたいと思っている。・・・あくまで「思っている」です。今年中には、読む予定なし。読みたいのは、買ったままになっている 『罪と罰』)
前置きはここまでにして・・・。
見開きにある簡単な内容紹介には、「ドイツの一ブルジョア家庭の変遷を四代にわたって描く」とあります。
ブッデンブローク商会がどのように栄え、どのように危機を乗り越え、どのように名誉を手にし、どのように没落していったのか・・・。
最初はちょっととっかかりにくかったんですが、読み進むうちに、キャラクターを見守っていくような気持ちになっていく、この不思議さ。
アントーニエ(愛称トーニ)の愚かしさと無知と小賢しさが愛らしく思えたり、兄のトーマス(愛称トム)の頼もしさに、トーニを羨ましく思えたり・・・。
長編作品を読む時には、どうしてもキャラクターに愛着を覚えていきますね・・・えっ、私だけ?
当時のドイツの各都市の風習や生活、歴史背景・・・ナポレオンがヨーロッパ全土をかき乱した直後の頃から物語が始まるので、高校の世界史の授業でその辺りを習っていなかった私には、これはちょっと苦手な部分ではありました。
しかしナポレオンという存在が、市井の人々の意識を変えたというのは否めません。トーニの初恋の相手、モルテンが言うように・・・。
みんなが同一の権利を持つ国民の一人であって、神と庶民の間に仲介者が存在しなくなるように、市民は国家に直接向かい合うべきです! (中略) 真実はなんにも書いてはならないし、学生に教えることもならない。真実は、現行の秩序制度に一致しないだろうからというのです。……よろしいですか? 真実は抑圧され、発言は封じられたのです。 (中略)
暴力、この愚劣で粗野で、この世をわがもの顔にしている警察力、――精神的なもの、新しいものをなんにも理解できない警察力。 (p198)
更には商売やお金にまつわる内容も出てきますので、読むのが辛い部分もありました。
(この「辛い」というのは、決して私がそれらに疎いという意味ではなく、また別の意味でのこと)
何というか、身につまされるというか・・・(苦笑) お金は人を幸にも不幸にもするんです、はい。
今回最初と最後に取り上げた引用部分も、それに関するもの。
この瞬間になってから、「破産」という言葉の意味が、初めてはっきりとし、子供のころからその言葉に感じていた漠然とした恐ろしさが、よみ返ってきた。……「破産」……それは死よりもぞっとするものであった。混乱、崩壊、零落、汚辱、屈辱、絶望、悲惨であった。 (p309)
岩波文庫。訳者は望月市恵さん。2005年の夏の一括重版で、入手。上巻を読んだのは2007年1月10〜16日。
文庫で全3巻ありますが、一巻ずつアップしていきましょう。
トーマス・マンの作品を読むのは、『ヴェニスに死す』(新潮文庫) を読んで以来。
(余談ですが、ヴェネツィア表記の方が、いいよね。光文社古典新訳文庫で最近発売されたものは、『ヴェネツィアに死す』になっていました)
『ブッデンブローク家の人びと』 を読むきっかけになったのは、これも高村薫さんの作品 『レディ・ジョーカー』(毎日新聞社) を読んだ時。主人公の一人・合田雄一郎さんのある時期の読書遍歴が紹介されていた部分がありました。
なるべく長いやつを選んで、七月には『ブッデンブローク家の人々』と『ユリシーズ』と『大菩薩峠』を読み、八月には『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『チボー家の人々』と続いてきて、まだ五巻目の三分の二が残っていた。 (『レディ・ジョーカー』下巻p264〜265)
ここで私は 『チボー家の人々』 を昨年読破し(←感想記事も、途中で止まったままやん)、『ブッデンブローク家の人びと』 を今年の初めに購読し、『カラマーゾフの兄弟』 を現在買っているわけです。(全巻揃ってから読みたいと思っている。・・・あくまで「思っている」です。今年中には、読む予定なし。読みたいのは、買ったままになっている 『罪と罰』)
前置きはここまでにして・・・。
見開きにある簡単な内容紹介には、「ドイツの一ブルジョア家庭の変遷を四代にわたって描く」とあります。
ブッデンブローク商会がどのように栄え、どのように危機を乗り越え、どのように名誉を手にし、どのように没落していったのか・・・。
最初はちょっととっかかりにくかったんですが、読み進むうちに、キャラクターを見守っていくような気持ちになっていく、この不思議さ。
アントーニエ(愛称トーニ)の愚かしさと無知と小賢しさが愛らしく思えたり、兄のトーマス(愛称トム)の頼もしさに、トーニを羨ましく思えたり・・・。
長編作品を読む時には、どうしてもキャラクターに愛着を覚えていきますね・・・えっ、私だけ?
当時のドイツの各都市の風習や生活、歴史背景・・・ナポレオンがヨーロッパ全土をかき乱した直後の頃から物語が始まるので、高校の世界史の授業でその辺りを習っていなかった私には、これはちょっと苦手な部分ではありました。
しかしナポレオンという存在が、市井の人々の意識を変えたというのは否めません。トーニの初恋の相手、モルテンが言うように・・・。
みんなが同一の権利を持つ国民の一人であって、神と庶民の間に仲介者が存在しなくなるように、市民は国家に直接向かい合うべきです! (中略) 真実はなんにも書いてはならないし、学生に教えることもならない。真実は、現行の秩序制度に一致しないだろうからというのです。……よろしいですか? 真実は抑圧され、発言は封じられたのです。 (中略)
暴力、この愚劣で粗野で、この世をわがもの顔にしている警察力、――精神的なもの、新しいものをなんにも理解できない警察力。 (p198)
更には商売やお金にまつわる内容も出てきますので、読むのが辛い部分もありました。
(この「辛い」というのは、決して私がそれらに疎いという意味ではなく、また別の意味でのこと)
何というか、身につまされるというか・・・(苦笑) お金は人を幸にも不幸にもするんです、はい。
今回最初と最後に取り上げた引用部分も、それに関するもの。
この瞬間になってから、「破産」という言葉の意味が、初めてはっきりとし、子供のころからその言葉に感じていた漠然とした恐ろしさが、よみ返ってきた。……「破産」……それは死よりもぞっとするものであった。混乱、崩壊、零落、汚辱、屈辱、絶望、悲惨であった。 (p309)
2007年4月1日(日) at 15:48 / コメント( 1 )/ トラックバック( 0 )
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破局 (ダフネ・デュ・モーリア) / からな
本 > な行・は行のタイトル本
あなたの目の前に この世でもっとも危険な陥穽が口を開いている (帯コピー)
早川書房。訳者は吉田誠一。買ったのは2006年6月。読んだのは7/8〜7/13。
この記事 にも書いたが、復刊ドットコム で私もリクエストしていた。
<異色作家短編集>シリーズ 全20巻 の一冊として、何と42年ぶりの復刊! 42年前って・・・私は生まれてません(笑)
『書物の王国8 美少年』 (国書刊行会) というアンソロジーで、ダフネ・デュ・モーリアの 「美少年」 という作品が収められていて、それが面白かったので、これが収められている書籍の 『破局』 を読んでみたいなあ、と思ったのがきっかけ。
災いの匂いは致命的なもの。侵入し、喉を詰まらせ、同時に戦いをいどむ。 (「美少年」p122)
6つの作品からなる中短編集である 『破局』 の原題は、「THE BREAKING POINT」。「破局」 という作品はありません。全ての作品に共通するテーマといっていいのが、この言葉でしょう。
以下は、作品収録順ではなく、私が読んだ順に簡単に感想等を述べていきます。
「アリバイ」 (原題:The Alibi)
「奴らは知らないんだ」と彼は考えた。「家の中にいる人間どもは……おれの身振り一つで、今、この瞬間、自分たちの世界が変わってしまうかもしれないということを」 (「アリバイ」p10)
再読必至の、摩訶不思議な作品。
「ええ〜!? どこからどこまでが「嘘」で、どこからどこまでが「事実」なんだ!?」と読了時にうろたえてしまった(苦笑)
「あいつはおれを信じてくれない――決して信じてくれないだろう」 (「アリバイ」p56)
の台詞が、私が混乱した要因かも知れない。一種のリデル・ストーリーとしても読めるのでは?
「青いレンズ」 (原題:The Blue Lenses)
耳というものはなんてあてにならないものだろう、真実の裏切り者だ、とマーダ・ウェストはおもった。 (「青いレンズ」p97)
目の手術をして新しいレンズを入れた主人公が見る、奇妙で奇天烈な世界。見えるものだけが真実ではないし、目で見えないからといって、本性が感じ取れないわけではない、という典型的なパターンだが、最後のオチで、「その後、どうなったんだろう」と思わずにはいられない物語。
「荒れ野」 (原題:The Lordly Ones)
「荒れ野(ムア)」という言葉そのものに、暗い不吉な響きがこもっている。一種の脅し。 (「荒れ野」p210)
解説で関口苑生さんが書いているように、一番突飛な設定かもしれない・・・らしい?
異なった生物間では、「言葉」がなくてもある程度の「意思の疎通」は出来るものなのか? という問いかけのように私は解釈しましたが・・・これを読まれた皆さんはいかがでしょうか?
「あおがい」 (原題:The Limpet)
どうみてもわたしは鈍感な女ではない。それが苦労の種なのだ。他人の感情に無感覚になれたら、人生はがらりと変わったものになるのだが。 (「あおがい」p231)
自分よりも他人の「幸福」を優先してきた主人公の「不幸」の話。他人が「不幸」になったことは、自分のせいだと気づいていないところに悲劇があり、主人公の正義感に似た「思い込み」の深さにも救いがなく、読み手は薄ら寒さを感じてしまう。
傷つけられたときは、黙っているほうがはるかに品位があるものだ。 (「あおがい」p233)
噂は往々実現するものなのだ。きょうの願望充足は明日の事実なのだ。 (「あおがい」p251)
・・・そうかなあ? 時と場合によると思うが。
原題の「Limpet」の意味が解らなかったので、調べてみた。「【貝】カサガイの類; ツタノハガイ」、そこから転じて「しがみつく人」の意味に。・・・なるほど、と意味を知って作品を読めば、納得。
そして、人間の抗い難い深奥も垣間見させてくれる。
妙なことだが、どんなに理性的な人でも称賛にはよわい。どんなにべた褒めしても、いい気になるものだ。 (「あおがい」p255)
主人公の最後の独白は、誰もが思うことだろう。そして否応なしに気づく。過ぎ去った時間は二度と戻らないことを。やり直しはきかないことを。
わたしが知りたいのは、自分はいったいどこで人生の道を誤ってしまったのかということだ。 (「あおがい」p259)
どうしてわたしはこんなに運が悪く、こんなに不幸なんだろう?
わたしはどうしたらいいのだろう? (「あおがい」p259〜260)
「皇女」 (原題:The Archduchess)
西欧人は決して満ち足りることを知らない。満足することは許しがたき罪である。西欧人はたえず、ある見えざる目標に向かって邁進する――たとえそれが物質的快楽であれ、より偉大で、より純粋な神であれ、宇宙の支配権を握るような武器であれ。それを意識すればするほど、気ぜわしく貪欲になり、結局はそこに戻らなくてはならないにせよ、自己が生まれ出てきた境遇に満足することを知らず、つねに改善をこころがけていながら同胞を奴隷と化している。 (「皇女」p168)
「ロンダ公国」という南ヨーロッパにあるという設定の、架空の国で起こった一大事件。つまり革命が起きて、「ロンダ共和国」になったのだ。その一部始終を簡潔に物語った内容だが、さまざまな含蓄や揶揄が満ちた作品でもある。
噂は勇気ある者をも臆病にし、冷静な者をも恐怖に陥れる。 (「皇女」p183)
問題は、民衆が疑い出せばキリがないということにある。疑惑は疑惑を呼び、もはや安全なものはなく、信頼すべき人間もいない、ということになる。信頼感を失った人間は魂をも失う。 (「皇女」p196)
憶測というものはいつも食いちがうものだ。確かなことなど、だれも知りはしない。 (「皇女」p197)
以上に取り上げた内容からも解るように、「統治される側の群集心理の怖さ」というものも、教えてくれる。それを利用しての「革命の良し悪し」が、この作品の「怖さ」でもあるのだろうか。
「美少年」 (原題:Ganymede)
この存在しない自己は、全神経繊維、全脳神経細胞、全血球で、この男が生死の施主、不死の者、愛人たるゼウスであり、彼のほうにやってくる少年がその愛人、酌取り、奴隷たるガニメデであることを知った。 (「美少年」p117〜118)
原題は、ギリシア神話の大神・ゼウスに見初められて誘拐された美少年・ガニュメデスのこと。神々の食事の席で、お小姓としてお酒を注ぐ役を果たし、後にみずがめ座となった。
『書物の王国8 美少年』 (国書刊行会) で初めて読んだ時、クライマックスに悲惨な展開があるんだが、最後の段落で大笑いを余儀なくされた作品。
わたしの人生はかなり変わってしまった。 (「美少年」p156)
要するに……わたしは変わってしまったのだ。 (「美少年」p156)
という文章が最後にあるのだが、「そういう意味の変わり方かい!」とツッコミせずにはいられないオチだった。
「以前ここにきたことがある」という感じとは違う。「生まれ変わったのだ」というロマンチックな夢とも違う。あたかも直観的に、ついに自分自身になったというような感じだった。わたしは到着したのだ。ほかならぬこの瞬間がわたしを待ち受けていたのであり、わたしのほうもこの瞬間を待ち受けていたのだ。 (「美少年」p116)
トーマス・マンの『ヴェニスに死す』 を知っていたら、秀逸なパロデイ、または偉大なるオマージュとしても読める作品。
パロディもここまで突き詰めて独自のオチを持ってくると、本家に匹敵する価値がありますね。
『不快な』というのは、いまわしい言葉だ。辞書に載っている言葉のなかで、もっともいまわしい言葉だ。生のみならず、死における醜悪なものすべてを連想させる言葉だ。快いものは歓喜であり、活力(エラン)であり、心身一致に伴う情熱である。不快なものは、悪臭を放つ植物の腐敗であり、腐った肉であり、運河の底の泥である。 (「美少年」p111)
とりあえずは、この主人公に幸あれ! と願っておこう(笑)
幸か不幸か、この作家の名前は、ヒッチコックの映画と切っても切れないようになっている。(「レベッカ」 「鳥」 の原作者なので)
それだけがこの作家の魅力じゃないのよ・・・と、本書を読めば、新たな一面を見い出すことが、出来るはず。
私は充分、楽しみましたよ♪
早川書房。訳者は吉田誠一。買ったのは2006年6月。読んだのは7/8〜7/13。
この記事 にも書いたが、復刊ドットコム で私もリクエストしていた。
<異色作家短編集>シリーズ 全20巻 の一冊として、何と42年ぶりの復刊! 42年前って・・・私は生まれてません(笑)
『書物の王国8 美少年』 (国書刊行会) というアンソロジーで、ダフネ・デュ・モーリアの 「美少年」 という作品が収められていて、それが面白かったので、これが収められている書籍の 『破局』 を読んでみたいなあ、と思ったのがきっかけ。
災いの匂いは致命的なもの。侵入し、喉を詰まらせ、同時に戦いをいどむ。 (「美少年」p122)
6つの作品からなる中短編集である 『破局』 の原題は、「THE BREAKING POINT」。「破局」 という作品はありません。全ての作品に共通するテーマといっていいのが、この言葉でしょう。
以下は、作品収録順ではなく、私が読んだ順に簡単に感想等を述べていきます。
「アリバイ」 (原題:The Alibi)
「奴らは知らないんだ」と彼は考えた。「家の中にいる人間どもは……おれの身振り一つで、今、この瞬間、自分たちの世界が変わってしまうかもしれないということを」 (「アリバイ」p10)
再読必至の、摩訶不思議な作品。
「ええ〜!? どこからどこまでが「嘘」で、どこからどこまでが「事実」なんだ!?」と読了時にうろたえてしまった(苦笑)
「あいつはおれを信じてくれない――決して信じてくれないだろう」 (「アリバイ」p56)
の台詞が、私が混乱した要因かも知れない。一種のリデル・ストーリーとしても読めるのでは?
「青いレンズ」 (原題:The Blue Lenses)
耳というものはなんてあてにならないものだろう、真実の裏切り者だ、とマーダ・ウェストはおもった。 (「青いレンズ」p97)
目の手術をして新しいレンズを入れた主人公が見る、奇妙で奇天烈な世界。見えるものだけが真実ではないし、目で見えないからといって、本性が感じ取れないわけではない、という典型的なパターンだが、最後のオチで、「その後、どうなったんだろう」と思わずにはいられない物語。
「荒れ野」 (原題:The Lordly Ones)
「荒れ野(ムア)」という言葉そのものに、暗い不吉な響きがこもっている。一種の脅し。 (「荒れ野」p210)
解説で関口苑生さんが書いているように、一番突飛な設定かもしれない・・・らしい?
異なった生物間では、「言葉」がなくてもある程度の「意思の疎通」は出来るものなのか? という問いかけのように私は解釈しましたが・・・これを読まれた皆さんはいかがでしょうか?
「あおがい」 (原題:The Limpet)
どうみてもわたしは鈍感な女ではない。それが苦労の種なのだ。他人の感情に無感覚になれたら、人生はがらりと変わったものになるのだが。 (「あおがい」p231)
自分よりも他人の「幸福」を優先してきた主人公の「不幸」の話。他人が「不幸」になったことは、自分のせいだと気づいていないところに悲劇があり、主人公の正義感に似た「思い込み」の深さにも救いがなく、読み手は薄ら寒さを感じてしまう。
傷つけられたときは、黙っているほうがはるかに品位があるものだ。 (「あおがい」p233)
噂は往々実現するものなのだ。きょうの願望充足は明日の事実なのだ。 (「あおがい」p251)
・・・そうかなあ? 時と場合によると思うが。
原題の「Limpet」の意味が解らなかったので、調べてみた。「【貝】カサガイの類; ツタノハガイ」、そこから転じて「しがみつく人」の意味に。・・・なるほど、と意味を知って作品を読めば、納得。
そして、人間の抗い難い深奥も垣間見させてくれる。
妙なことだが、どんなに理性的な人でも称賛にはよわい。どんなにべた褒めしても、いい気になるものだ。 (「あおがい」p255)
主人公の最後の独白は、誰もが思うことだろう。そして否応なしに気づく。過ぎ去った時間は二度と戻らないことを。やり直しはきかないことを。
わたしが知りたいのは、自分はいったいどこで人生の道を誤ってしまったのかということだ。 (「あおがい」p259)
どうしてわたしはこんなに運が悪く、こんなに不幸なんだろう?
わたしはどうしたらいいのだろう? (「あおがい」p259〜260)
「皇女」 (原題:The Archduchess)
西欧人は決して満ち足りることを知らない。満足することは許しがたき罪である。西欧人はたえず、ある見えざる目標に向かって邁進する――たとえそれが物質的快楽であれ、より偉大で、より純粋な神であれ、宇宙の支配権を握るような武器であれ。それを意識すればするほど、気ぜわしく貪欲になり、結局はそこに戻らなくてはならないにせよ、自己が生まれ出てきた境遇に満足することを知らず、つねに改善をこころがけていながら同胞を奴隷と化している。 (「皇女」p168)
「ロンダ公国」という南ヨーロッパにあるという設定の、架空の国で起こった一大事件。つまり革命が起きて、「ロンダ共和国」になったのだ。その一部始終を簡潔に物語った内容だが、さまざまな含蓄や揶揄が満ちた作品でもある。
噂は勇気ある者をも臆病にし、冷静な者をも恐怖に陥れる。 (「皇女」p183)
問題は、民衆が疑い出せばキリがないということにある。疑惑は疑惑を呼び、もはや安全なものはなく、信頼すべき人間もいない、ということになる。信頼感を失った人間は魂をも失う。 (「皇女」p196)
憶測というものはいつも食いちがうものだ。確かなことなど、だれも知りはしない。 (「皇女」p197)
以上に取り上げた内容からも解るように、「統治される側の群集心理の怖さ」というものも、教えてくれる。それを利用しての「革命の良し悪し」が、この作品の「怖さ」でもあるのだろうか。
「美少年」 (原題:Ganymede)
この存在しない自己は、全神経繊維、全脳神経細胞、全血球で、この男が生死の施主、不死の者、愛人たるゼウスであり、彼のほうにやってくる少年がその愛人、酌取り、奴隷たるガニメデであることを知った。 (「美少年」p117〜118)
原題は、ギリシア神話の大神・ゼウスに見初められて誘拐された美少年・ガニュメデスのこと。神々の食事の席で、お小姓としてお酒を注ぐ役を果たし、後にみずがめ座となった。
『書物の王国8 美少年』 (国書刊行会) で初めて読んだ時、クライマックスに悲惨な展開があるんだが、最後の段落で大笑いを余儀なくされた作品。
わたしの人生はかなり変わってしまった。 (「美少年」p156)
要するに……わたしは変わってしまったのだ。 (「美少年」p156)
という文章が最後にあるのだが、「そういう意味の変わり方かい!」とツッコミせずにはいられないオチだった。
「以前ここにきたことがある」という感じとは違う。「生まれ変わったのだ」というロマンチックな夢とも違う。あたかも直観的に、ついに自分自身になったというような感じだった。わたしは到着したのだ。ほかならぬこの瞬間がわたしを待ち受けていたのであり、わたしのほうもこの瞬間を待ち受けていたのだ。 (「美少年」p116)
トーマス・マンの『ヴェニスに死す』 を知っていたら、秀逸なパロデイ、または偉大なるオマージュとしても読める作品。
パロディもここまで突き詰めて独自のオチを持ってくると、本家に匹敵する価値がありますね。
『不快な』というのは、いまわしい言葉だ。辞書に載っている言葉のなかで、もっともいまわしい言葉だ。生のみならず、死における醜悪なものすべてを連想させる言葉だ。快いものは歓喜であり、活力(エラン)であり、心身一致に伴う情熱である。不快なものは、悪臭を放つ植物の腐敗であり、腐った肉であり、運河の底の泥である。 (「美少年」p111)
とりあえずは、この主人公に幸あれ! と願っておこう(笑)
幸か不幸か、この作家の名前は、ヒッチコックの映画と切っても切れないようになっている。(「レベッカ」 「鳥」 の原作者なので)
それだけがこの作家の魅力じゃないのよ・・・と、本書を読めば、新たな一面を見い出すことが、出来るはず。
私は充分、楽しみましたよ♪
2006年7月17日(月) at 21:54 / コメント( 4 )/ トラックバック( 3 )
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ボルジア家の黄金の血 (フランソワーズ・サガン) / からな
本 > な行・は行のタイトル本
「あなたはイタリアの力に恋しているのよね、チェーザレ。あたしはイタリアの美に恋をしているの」 (p39)
新潮文庫。訳者は鷲見洋一さん。買ったのは5年くらい前。読んだのは今年の12/1〜12/3。
昨年亡くなった「フランソワーズ・サガン」の名と、「ボルジア家」の名に惹かれて、即購入を決めたにもかかわらず、なかなか読むタイミングが合わなくて、ようやく読了。
サガンの作品を、それまでに私はたった一作しか読んでいない。誰もが知っているデビュー作 『悲しみよ こんにちは』 である。
サガンにとっても、私たち読み手にとっても、本作は「歴史物」という異色作。
巻末のあとがきを読むと、最初はTVドラマの脚本を依頼されて台詞の部分を書き、他者の協力を得て脚本を仕上げ、その後また別の他者の協力を得て「小説化」した作品らしい。だからどこまで純粋にサガンの手が入っているのかが、解らない。
「ボルジアの人間の前から逃げるというのはね、逃げるんじゃなくて、生きながらえることなの」 (p143)
ボルジア家には嘘か真かは二の次にされた、固定された「イメージ」というものがある。
ボルジア家の毒薬。兄弟殺し。近親相姦。全てをサガンは盛り込んでいる。
「あなた様は冷淡なお方と言われておりますが、この私にしたところで結局は冷淡なのです」
「同じ風にではないな。お前はものを創るが、わしは壊す。お前は風景に光を与えるが、わしは燃やす。この違いは大きいぞ、レオナルド。だがな、違うからこそやっていけるのだし、たぶんお互いに我慢もし合えるのだ」 (p167)
脇を占める歴史上の偉大なる人物たちも見逃せない。
万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
透徹したリアリスト、ニコロ・マキァヴェルリ。
どちらもなかなかいい味を出しているキャラクター。しかし、残念ながら所詮は「脇役」だ(笑)
「退屈していたのだ。退屈は私にとって唯一の死の病いだ、あなたには想像力がある、チェーザレ、それから図々しい。私は助言であなたの力になれる」 (p196)
そして最大の脇役は、歴代のローマ教皇の中で、最も異端で最も悪名高いアレッサンドロ六世。この人物なくしては、「ボルジア家」は歴史の流れの中に埋没していただろう。
「死は何ものでもない、死はいくらもある幻の一つにすぎないし、また生にしたところで一続きの幻影でしかなく、ただわしらはそうした幻影を凶暴さあまって現実や高慢に変えているだけなのだ」 (p220)
この発言の直後に、誤って毒入り酒を飲んでしまい、死の苦しみを味わうアレッサンドロ六世の描写が秀逸だ。
脇役ばかり先に紹介したが、メインはやっぱりチェーザレとルクレツィア。この二人の織りなす愛憎に重きを置かれている物語だ。
だが、「歴史」に重点を置く読み手には、物足りないだろうと思われる。「史実」の捉え方に多少の欠点が見えるからだ。いっそ「ロマンス」と開き直って読む方が、いいかもしれない。
「おかしいわ、二人ですればあんなに美しいことが二十人になるとああも滑稽だなんて。面白いことね、美というものにも時々真面目な時があるのね」 (p144)
日本には、塩野七生さんの『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』 という作品がある。
こちらを先に読んでいた私には、幸か不幸か、あまり純粋に本作を楽しめなかったことも事実だ。圧倒的に、チェーザレの描き方に違いがありすぎる。
塩野さんは、惚れた人物に対しては徹底的に惚れ込み、全てを自分自身に取り込んでから、人物像を描くタイプ。
作家の質やタイプの違いというものか、サガンには残念ながらそういうものが感じられない。
ただ、サガンの描くルクレツィアは、面白いと思った。これは日本女性とフランス女性の作家の違いの表れなのか?
「もう会いたくないし、遊びもこれで終わり。どんな遊びも」 (p231)
だが、それが良くないと私は言っているのではない。それもありだ、と思っている。サガンは「エンターテインメント」を盛り込んだ「歴史物」を、「ボルジア家」に托して作り上げようとしたのだろう。「物語を作り上げる」というただ一点に徹した作家なのだ。
それを示すサガンの本作に対する言葉を、最後に引用しておく。
なぜボルジア家を選んだのか。彼らが腐敗し、残虐で、貪婪で、凶暴で、耽美的だからか。いや、そうではない。 (中略) ただ、ボルジア家の人々は、若く、美しく、情熱的であり、とりわけごまかしをやろうとしなかった。 (中略)
それと、このヒーローたちに限っては「反映」とか「範例」とかにはなりえない。だから、読者を楽しませよう、驚かせよう、できれば夢見させようという以外の心づもりもなく、一つの物語を物語るのは、私にとって心地よい、しかも有益なことのように思えたのである。 (p235〜236)
新潮文庫。訳者は鷲見洋一さん。買ったのは5年くらい前。読んだのは今年の12/1〜12/3。
昨年亡くなった「フランソワーズ・サガン」の名と、「ボルジア家」の名に惹かれて、即購入を決めたにもかかわらず、なかなか読むタイミングが合わなくて、ようやく読了。
サガンの作品を、それまでに私はたった一作しか読んでいない。誰もが知っているデビュー作 『悲しみよ こんにちは』 である。
サガンにとっても、私たち読み手にとっても、本作は「歴史物」という異色作。
巻末のあとがきを読むと、最初はTVドラマの脚本を依頼されて台詞の部分を書き、他者の協力を得て脚本を仕上げ、その後また別の他者の協力を得て「小説化」した作品らしい。だからどこまで純粋にサガンの手が入っているのかが、解らない。
「ボルジアの人間の前から逃げるというのはね、逃げるんじゃなくて、生きながらえることなの」 (p143)
ボルジア家には嘘か真かは二の次にされた、固定された「イメージ」というものがある。
ボルジア家の毒薬。兄弟殺し。近親相姦。全てをサガンは盛り込んでいる。
「あなた様は冷淡なお方と言われておりますが、この私にしたところで結局は冷淡なのです」
「同じ風にではないな。お前はものを創るが、わしは壊す。お前は風景に光を与えるが、わしは燃やす。この違いは大きいぞ、レオナルド。だがな、違うからこそやっていけるのだし、たぶんお互いに我慢もし合えるのだ」 (p167)
脇を占める歴史上の偉大なる人物たちも見逃せない。
万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
透徹したリアリスト、ニコロ・マキァヴェルリ。
どちらもなかなかいい味を出しているキャラクター。しかし、残念ながら所詮は「脇役」だ(笑)
「退屈していたのだ。退屈は私にとって唯一の死の病いだ、あなたには想像力がある、チェーザレ、それから図々しい。私は助言であなたの力になれる」 (p196)
そして最大の脇役は、歴代のローマ教皇の中で、最も異端で最も悪名高いアレッサンドロ六世。この人物なくしては、「ボルジア家」は歴史の流れの中に埋没していただろう。
「死は何ものでもない、死はいくらもある幻の一つにすぎないし、また生にしたところで一続きの幻影でしかなく、ただわしらはそうした幻影を凶暴さあまって現実や高慢に変えているだけなのだ」 (p220)
この発言の直後に、誤って毒入り酒を飲んでしまい、死の苦しみを味わうアレッサンドロ六世の描写が秀逸だ。
脇役ばかり先に紹介したが、メインはやっぱりチェーザレとルクレツィア。この二人の織りなす愛憎に重きを置かれている物語だ。
だが、「歴史」に重点を置く読み手には、物足りないだろうと思われる。「史実」の捉え方に多少の欠点が見えるからだ。いっそ「ロマンス」と開き直って読む方が、いいかもしれない。
「おかしいわ、二人ですればあんなに美しいことが二十人になるとああも滑稽だなんて。面白いことね、美というものにも時々真面目な時があるのね」 (p144)
日本には、塩野七生さんの『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』 という作品がある。
こちらを先に読んでいた私には、幸か不幸か、あまり純粋に本作を楽しめなかったことも事実だ。圧倒的に、チェーザレの描き方に違いがありすぎる。
塩野さんは、惚れた人物に対しては徹底的に惚れ込み、全てを自分自身に取り込んでから、人物像を描くタイプ。
作家の質やタイプの違いというものか、サガンには残念ながらそういうものが感じられない。
ただ、サガンの描くルクレツィアは、面白いと思った。これは日本女性とフランス女性の作家の違いの表れなのか?
「もう会いたくないし、遊びもこれで終わり。どんな遊びも」 (p231)
だが、それが良くないと私は言っているのではない。それもありだ、と思っている。サガンは「エンターテインメント」を盛り込んだ「歴史物」を、「ボルジア家」に托して作り上げようとしたのだろう。「物語を作り上げる」というただ一点に徹した作家なのだ。
それを示すサガンの本作に対する言葉を、最後に引用しておく。
なぜボルジア家を選んだのか。彼らが腐敗し、残虐で、貪婪で、凶暴で、耽美的だからか。いや、そうではない。 (中略) ただ、ボルジア家の人々は、若く、美しく、情熱的であり、とりわけごまかしをやろうとしなかった。 (中略)
それと、このヒーローたちに限っては「反映」とか「範例」とかにはなりえない。だから、読者を楽しませよう、驚かせよう、できれば夢見させようという以外の心づもりもなく、一つの物語を物語るのは、私にとって心地よい、しかも有益なことのように思えたのである。 (p235〜236)
2005年12月5日(月) at 22:32 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
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藤壺 (瀬戸内寂聴) / からな
本 > な行・は行のタイトル本
「いいえ、夢でした。すべては逝く春の夜のはかない夢でございました」 (p60)
講談社。昨年11月に発売。読んだのは2005年6月4日と5日。
これは昨年の母の誕生日プレゼントとして買ったもの。たまたま出版されたばかりだったのを本屋さんで見つけた。瀬戸内寂聴さんだし、『源氏物語』が題材だし、字も大きいし、短くて読みやすいだろうし、これはプレゼントに最適! と即決。プレゼント用に包装してもらう。
ところが母はなかなか読んでくれません。母にプレゼントしたものを、先に私が読むわけにもいきません。ひたすら待ち続けて、5月半ばにやっと「読んだから」と渡してくれました。半年近く経ってますね・・・。
まあ、いいんです。母はマイペースな人なので。
この小説は、かつて『源氏物語』にあったとされる「かかやく日の宮」という帖を、瀬戸内さんが創作したもの。内容は、光る源氏と藤壺女御との禁断の逢瀬を描いたものとされている。
義理の母と息子の密通という内容が内容なので、「一条帝が削除をお命じになられた」と瀬戸内さんは推理されている。
『輝く日の宮』(丸谷才一)では、「削除させたのは藤原道長」と推測されているらしい。(これは私は未読です)
王命婦はようやく果ててしまったようでした。真珠も瑪瑙も、唐渡りの絹や錦も、手に入れがたい香木も、どれ一つ欲しがらぬ女を屈服させるのは、この方法しかなかったのでした。事実、体で結ばれてしまえば、どの女もみなどのような要求にも応じてくれるということを源氏の君は覚えました。 (p38)
イヤな男だ、光る源氏。この物語ではまだ十代!(←それもすごいが) こんなこと覚えたらいけませんよ。
しかしこれが「光る君」の原点でもあるわけで・・・。当時の「恋愛事情」を考えたら「将を射んと欲すればまず馬を射よ」、つまりターゲットを得るためには周りから籠絡していくのがいい。
瀬戸内さんは「かかやく日の宮」を創作したばかりでなく、それを古文でも創作されている。(協力者は石埜敬子さん) それがこの本の目玉でもあるだろう。
その古文の部分は、音読しました。古文は音読してこそ頭に入りやすいし、一千年も昔の当時の世界に、浸ることが出来ると思うので。つっかえつつも、読みました。
そうすると、日本の文学・詩歌は「省略すること」が特色なのだなあ、気づく。その「省略」された部分を、いかに肉付けして想像を膨らませて脚色していくのか。これが「訳者」の腕のみせどころなのだということにも。
命婦やうやう果て終りぬ。真珠、瑪瑙、唐渡りの綾錦、香木をだにゆかしがらぬ女を語らふには、かかるほかなしとて、 (p78)
上記の当てはまる部分は、古文ではこう表現されている。これだけでも「省略」と「肉付け・想像・脚色」の何たるかが、分かると思う。
影の主役は、誰が何と言おうとこの王命婦。タイトルロールの藤壺も、源氏でさえもが霞んでしまう。しかも物語のラストをしめるのも、彼女だ。
一方、霞んでしまった藤壺だが、その抑えた描写も素晴らしいと私は思うの。この時の藤壺の心境を、読み手はあれこれと想像できるから。
「書かないこと」によって、より想像力を飛躍させることが出来る。これぞ「日本文学」の醍醐味の一つ。
「いな、夢なり。逝く春の夜のはかなき御夢にてはべり」 (p91)
講談社。昨年11月に発売。読んだのは2005年6月4日と5日。
これは昨年の母の誕生日プレゼントとして買ったもの。たまたま出版されたばかりだったのを本屋さんで見つけた。瀬戸内寂聴さんだし、『源氏物語』が題材だし、字も大きいし、短くて読みやすいだろうし、これはプレゼントに最適! と即決。プレゼント用に包装してもらう。
ところが母はなかなか読んでくれません。母にプレゼントしたものを、先に私が読むわけにもいきません。ひたすら待ち続けて、5月半ばにやっと「読んだから」と渡してくれました。半年近く経ってますね・・・。
この小説は、かつて『源氏物語』にあったとされる「かかやく日の宮」という帖を、瀬戸内さんが創作したもの。内容は、光る源氏と藤壺女御との禁断の逢瀬を描いたものとされている。
義理の母と息子の密通という内容が内容なので、「一条帝が削除をお命じになられた」と瀬戸内さんは推理されている。
『輝く日の宮』(丸谷才一)では、「削除させたのは藤原道長」と推測されているらしい。(これは私は未読です)
王命婦はようやく果ててしまったようでした。真珠も瑪瑙も、唐渡りの絹や錦も、手に入れがたい香木も、どれ一つ欲しがらぬ女を屈服させるのは、この方法しかなかったのでした。事実、体で結ばれてしまえば、どの女もみなどのような要求にも応じてくれるということを源氏の君は覚えました。 (p38)
イヤな男だ、光る源氏。この物語ではまだ十代!(←それもすごいが) こんなこと覚えたらいけませんよ。
しかしこれが「光る君」の原点でもあるわけで・・・。当時の「恋愛事情」を考えたら「将を射んと欲すればまず馬を射よ」、つまりターゲットを得るためには周りから籠絡していくのがいい。
瀬戸内さんは「かかやく日の宮」を創作したばかりでなく、それを古文でも創作されている。(協力者は石埜敬子さん) それがこの本の目玉でもあるだろう。
その古文の部分は、音読しました。古文は音読してこそ頭に入りやすいし、一千年も昔の当時の世界に、浸ることが出来ると思うので。つっかえつつも、読みました。
そうすると、日本の文学・詩歌は「省略すること」が特色なのだなあ、気づく。その「省略」された部分を、いかに肉付けして想像を膨らませて脚色していくのか。これが「訳者」の腕のみせどころなのだということにも。
命婦やうやう果て終りぬ。真珠、瑪瑙、唐渡りの綾錦、香木をだにゆかしがらぬ女を語らふには、かかるほかなしとて、 (p78)
上記の当てはまる部分は、古文ではこう表現されている。これだけでも「省略」と「肉付け・想像・脚色」の何たるかが、分かると思う。
影の主役は、誰が何と言おうとこの王命婦。タイトルロールの藤壺も、源氏でさえもが霞んでしまう。しかも物語のラストをしめるのも、彼女だ。
一方、霞んでしまった藤壺だが、その抑えた描写も素晴らしいと私は思うの。この時の藤壺の心境を、読み手はあれこれと想像できるから。
「書かないこと」によって、より想像力を飛躍させることが出来る。これぞ「日本文学」の醍醐味の一つ。
「いな、夢なり。逝く春の夜のはかなき御夢にてはべり」 (p91)
2005年6月5日(日) at 17:52 / コメント( 4 )/ トラックバック( 1 )
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七都市物語 (田中芳樹) / からな
本 > な行・は行のタイトル本
「おれは人間だ」
「そう信じるのは貴官の自由だ」 (p287)
早川JA文庫。今まで読んできた田中芳樹さんの作品で、単純に「読むという行為」を楽しむならば、これが一番好き。
5つの連作中編集という体裁。文庫一冊分で長くないし、一応終わっているし、続きは書かないとの仰せだし。続きは書きようがないだろう。ああいう展開では、各都市の潰し合い、とことん戦争ばっかりに・・・。
「そうとも、お前さんが負けたわけじゃない。おれたちが勝っただけさ。歴史ってやつは主役の視点から叙述されるのでね」 (p305)
『銀河英雄伝説』 を読んだ方ならお分かりだろうが、歴史、政治や戦争についても、田中さん流の毒や皮肉が、時にはキャラクターの思考や言葉で、時には地の文で表現されている。
「教育とは才能を発掘し、個性を伸ばす事業だが、もともと存在しないものは発掘することも伸ばすこともできない。ことに軍事的才能というやつは、芸術的創造力とならんで、素質がつねに努力を凌駕する。ある意味でもっとも非道徳的な分野に属しているんだ」 (p32)
無責任さとはで好みとは、軍事に関する限り、ほぼ正比例する。 (p103)
戦争をさせる者が、戦争をする者より低水準の生活を送るという例は、歴史上にひとつもない。それは人類が戦争という便利な解決手段を発明して以来、不変の法則であった。 (p179)
独裁者は人事権を餌として、自分と同じ価値観を持つ人間たちを釣りあげるのがつねである。そして、自分と異なる価値観を所有する人間の存在など、想像もしない (p183)
特徴的なキャラクターも多いから、読み手それぞれに、ご贔屓があるでしょう。
私のご贔屓キャラクターは、ケネス・ギルフォード。ロマン的な色合いを付加して作られたキャラのように思えますね。
生まれた都市はニュー・キャメロット。「キャメロット」は、伝説のアーサー王のお城。それだけでも幻想的でロマンの香りを漂わせている。
そういう「名前」や「地名」にこだわって名付けるのが、田中さんは上手いなあ、と思う。
ケネス・ギルフォードに与えられているのは、鋼玉色の瞳、貴族的な容姿、だが左頬には一筋の傷があり、精悍さを増している・・・という設定。
「……敗者が最も好む言葉は、『今度こそ』である」(ケネス・ギルフォード氏の談話) (p232)
それに戦いの最中で、死にそうで死なないんだ、この人は!(苦笑) 至近での爆発で、榴弾の破片が頭髪をかすめた場面(p165)、ギュンター・ノルトに銃を向けられた場面(p177)、付近に着弾した砲弾の破片が、軍服の襟に突き刺さった場面(p283〜284) ・・・全て冷静沈着かつ大胆不敵にしのいでいる。そういうところも好きだ。
極めつけは、これだろう。ケネス・ギルフォードの過去が垣間見えるから。
敗北は一度でたくさんだった。恋と同様、二度は多すぎる。 (p23)
この文章が決定的。私が彼に興味を抱いたことは否めない。きっと頬の傷に関係あるのね、と。でもその過去は、明らかにされてはいない。だから、想像をたくましくしてみることが可能。
この頬の傷は、不本意な敗戦でついたのか。それとも、苦い恋の名残りか。私は後者だと信じている。
とんでもない感傷だ。一方の利己主義を阻害したからといって、他方の利己主義が美化されるものではない。 (p280)
***
・・・ところで。 こんなのが発売されるらしい。
・・・複雑。どうせなら、ご自分で書いてくれ!
まるで「公式の同○誌」のようじゃないのか、と思ったのは、私だけ?
「そう信じるのは貴官の自由だ」 (p287)
早川JA文庫。今まで読んできた田中芳樹さんの作品で、単純に「読むという行為」を楽しむならば、これが一番好き。
5つの連作中編集という体裁。文庫一冊分で長くないし、一応終わっているし、続きは書かないとの仰せだし。続きは書きようがないだろう。ああいう展開では、各都市の潰し合い、とことん戦争ばっかりに・・・。
「そうとも、お前さんが負けたわけじゃない。おれたちが勝っただけさ。歴史ってやつは主役の視点から叙述されるのでね」 (p305)
『銀河英雄伝説』 を読んだ方ならお分かりだろうが、歴史、政治や戦争についても、田中さん流の毒や皮肉が、時にはキャラクターの思考や言葉で、時には地の文で表現されている。
「教育とは才能を発掘し、個性を伸ばす事業だが、もともと存在しないものは発掘することも伸ばすこともできない。ことに軍事的才能というやつは、芸術的創造力とならんで、素質がつねに努力を凌駕する。ある意味でもっとも非道徳的な分野に属しているんだ」 (p32)
無責任さとはで好みとは、軍事に関する限り、ほぼ正比例する。 (p103)
戦争をさせる者が、戦争をする者より低水準の生活を送るという例は、歴史上にひとつもない。それは人類が戦争という便利な解決手段を発明して以来、不変の法則であった。 (p179)
独裁者は人事権を餌として、自分と同じ価値観を持つ人間たちを釣りあげるのがつねである。そして、自分と異なる価値観を所有する人間の存在など、想像もしない (p183)
特徴的なキャラクターも多いから、読み手それぞれに、ご贔屓があるでしょう。
私のご贔屓キャラクターは、ケネス・ギルフォード。ロマン的な色合いを付加して作られたキャラのように思えますね。
生まれた都市はニュー・キャメロット。「キャメロット」は、伝説のアーサー王のお城。それだけでも幻想的でロマンの香りを漂わせている。
そういう「名前」や「地名」にこだわって名付けるのが、田中さんは上手いなあ、と思う。
ケネス・ギルフォードに与えられているのは、鋼玉色の瞳、貴族的な容姿、だが左頬には一筋の傷があり、精悍さを増している・・・という設定。
「……敗者が最も好む言葉は、『今度こそ』である」(ケネス・ギルフォード氏の談話) (p232)
それに戦いの最中で、死にそうで死なないんだ、この人は!(苦笑) 至近での爆発で、榴弾の破片が頭髪をかすめた場面(p165)、ギュンター・ノルトに銃を向けられた場面(p177)、付近に着弾した砲弾の破片が、軍服の襟に突き刺さった場面(p283〜284) ・・・全て冷静沈着かつ大胆不敵にしのいでいる。そういうところも好きだ。
極めつけは、これだろう。ケネス・ギルフォードの過去が垣間見えるから。
敗北は一度でたくさんだった。恋と同様、二度は多すぎる。 (p23)
この文章が決定的。私が彼に興味を抱いたことは否めない。きっと頬の傷に関係あるのね、と。でもその過去は、明らかにされてはいない。だから、想像をたくましくしてみることが可能。
この頬の傷は、不本意な敗戦でついたのか。それとも、苦い恋の名残りか。私は後者だと信じている。
とんでもない感傷だ。一方の利己主義を阻害したからといって、他方の利己主義が美化されるものではない。 (p280)
***
・・・複雑。どうせなら、ご自分で書いてくれ!


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