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太ったんでないのッ!? (檀ふみ・阿川佐和子) / からな

> な行・は行のタイトル本
不思議なもので、人はおいしいものにありつくと、声も動作も大きくなる傾向にあるけれど、納得のいかぬ味に出会うと、概して静かになる。  (「大器バンザイ」p53)

新潮文庫。2007年5月3〜6日。GW中、家での読書に選びました。
このお二方の往復エッセイは、『ああ言えばこう食う』  『ああ言えばこう行く』 に続いて、3冊目。

「そろそろ読みたいなあ〜」と思っていた時に、タイミングよく発売。
しかし「薄いなあ・・・安いなあ・・・」と手にとってビックリ。掲載雑誌が休刊になったため、この薄さになったのか。あららら・・・残念。

通常、何かに目がないという場合、二つのケースが考えられる。すなわち、そのモノに対して大いに造詣深く厳しい場合と、逆に判断がゆるくなる場合である。  (「顰蹙茶漬け」p66)

読んでいて、このお二方の往復エッセイほど楽しめる書籍もなかろう。
テンポも良いし、気持ちのいい毒も効かせているし、オチもある。
薦めるならば、「ただ、読め! 黙って読んで楽しむが良い!」としか薦めようがない。
だから、雑感もこれ以上述べようがない。

贅沢とは、広くて大きいことなのだ。だからダンフミは贅沢を喜ぶのであろう。そう言うと、
「大きいだけじゃないの。贅沢はエレガントでなきゃダメなの」
  (「ディッファレント!」p77)

2007年6月24日(日) at 16:09 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
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水晶の栓 (モーリス・ルブラン) / からな

> さ行のタイトル本
「どうしてかだって? 今回のヤマを準備したのは、おれじゃないからな。自分で立てた計画でなければ、半分しか信用できないさ」 (p6〜7)

ハヤカワ文庫HM。訳者は平岡敦さん。読んだのは2007年2月26日〜3月1日。ハヤカワ文庫の<アルセーヌ・ルパン>シリーズ、第四弾。

この作品も中学生の頃、学校の図書室で借りて読みました。出版社名・シリーズ名ともに忘れましたが、「世界の十大推理小説」という感じのもので、その中の一冊に『水晶の栓』 が入っていました。
(他の作品、覚えている限りで挙げると、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』、 コナン・ドイルの『バスカーヴィル家の犬』、 エラリー・クィーンの『Yの悲劇』、 クロフツの『英仏海峡の謎』、 ウィリウム・アイリッシュの『黒衣の花嫁』、 ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』、 ダシール・ハメットの『マルタの鷹』、 後はタイトル忘れましたが、ジョルジュ・シムノンりメグレ警視もの、ジョン・ディクスン・カーのバンコランもの)
うーん、振り返ってみますと、なかなかの主流どころを集めておりますね。『黒衣の花嫁』『マルタの鷹』 はもう一度読みたいものです。

「わかってるだろう、おれは血を見るのが大嫌いだ。殺すくらいなら、殺されるほうがましなんだ」 (p16)

今回×十年ぶりに再読したわけですが、水晶の栓の隠し場所、その部分に読み進むまで、すっかり忘れておりました。今回の相手役・ドーブレックについても、忘却の彼方。記憶力って、こんなもんよね〜?

《ことをなすうえで難しいのは、最後の詰めより最初のとっかかりだ》 (p36)

『奇岩城』とともに傑作と称えられている『水晶の栓』ですが、個人的な好みでは、『水晶の栓』の方が好き。
その最大の理由は、「ルパンの恋物語」にあると思う。前者では結婚までこぎつけ、後者では意中の女性に振られるから(笑)

「知ってのとおり、ぼくはいつでも少年のように感傷的で、生娘みたいに純情なんだ」 (p376)

ルパンが恋をするのは、別にいいの。ただ、結婚まではして欲しくないの。独身でいて欲しいの。もう、身勝手なファン心理といえば、それまでなんですが。

以前にもここで記しましたが、私が<アルセーヌ・ルパン>シリーズ に求めるものは、ロマンス なのです。「ス」を抜いて、ロマン でもいい。恋と冒険の二本立て。
加えてロマンスには、悲恋の要素が大きいと、より嬉しい(笑)
ロマンには、何の要求もいたしません。ルパンと一緒に、ハラハラ・ドキドキしたいから。どうやってこの危機を乗り越えるんだろう、というルパンの手段に惚れ惚れ・感嘆したいから。

ここが思案のしどころだぞ。どんな苦境にあっても、あらゆる角度からじっくりと検討しなければ。これこそ彼が人生至上のときと呼ぶ一瞬、彼の生きがい、生きる喜びだった。いかなる危険が迫っていようとも、まずは心のなかで数を数える。《一……二……三……四……五……六……》と、胸の鼓動が収まるまで。それからやおら、考え始める。ぴんと神経を張りつめ、精神を集中させ、起こりうる事態すべてに直感を働かせて! 問題点のデータをもれなく頭のなかに並べ、すべてを予測し想定しておく。こうして、間違いのない論理的な結論を得るのだ。 (p21)

今回も「ルパンらしさ」がたくさん出ていて、読んでいて楽しかった。特にピンチの時に、「ああ、ルパンだな〜」と惚れ惚れ・感嘆してしまう部分があって、引用文でもルパンの思考・主義が分かる部分を選んでみました。ピンチを楽しみ、切り抜けるという極意や方法とでも言うべきか、それは今でも充分に通用するかと思われるのですが・・・いかがでしょう?
ここ最近の不祥事に共通すること。何でもかんでも「予想外だ」「想定外だ」の言葉で片付けず、人間には思考力や想像力があるんですから、ちょっとはルパンを見習ったら?

《放っておくんだ、ルパン。頭に血がのぼっているときは、判断を誤るからな。だから、何も考えるんじゃない。特に推測はやめておけ! しっかりした出発点が決まらないうちに、次から次へと推測を重ねるほど、馬鹿げたことはないんだ。そうやって、みんなおかしな方向へ行っちまう。本能の声を聞き、直観にしたがって進むんだ。理屈じゃない。論理は抜きだ》 (p90)

2007年5月20日(日) at 23:08 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
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奇岩城 (モーリス・ルブラン) / からな

> か行のタイトル本
「これほどの人物を相手にして、落ち着いてなんかいられますか、判事さん。ことが何であれ、並はずれたものは感嘆にあたいするんです。しかもあの男は、すべてを超越しているんですから。今回の窃盗計画には奇抜な発想、気力、体力、手際のよさと大胆さ、すべてがそろっている。考えただけで身震いするほどです」 (p89〜90)

ハヤカワ文庫HM。訳者は平岡敦さん。読んだのは2006年5月31日〜6月3日。ハヤカワ文庫の<アルセーヌ・ルパン>シリーズ、第三弾。

以前も記したが、中学生の読書感想文に、この作品を選んだことがある。書いた内容はそんなに覚えていないが、「感想、書きにくかったな」ということだけは覚えている。
これをたまたま見ている学生さんに忠告しておきます。推理小説やミステリは、読書感想文には向きませんから!

「いいかいルパンさん、そこがあんたの欠点なんだ。自分の策略にミスがないと、思い込んでいるところがね。敗北を認めるだって! ご冗談でしょう! 結局最後には自分が勝つとあんたはいつでも信じている……相手も策をめぐらしているってことを、忘れているんだ」 (p128〜129)

今回はルパンと少年探偵イジドール・ボートルレの対決が中心。
このイジドールが、私は好かないのだ(苦笑) 年下のこまっしゃくれた子供や少年少女が、大人をやりこめるというさまが、嫌いなのかもしれない。(例:アニメ「一休さん」)
それに私はルパン贔屓だから、これは仕方ないこと。今回の引用文も、イジドールがルパンを褒め称えたもの、ルパンが自画自賛したものを、故意に選ぶようにしたくらい。

「いいかい、イジドール君、退屈な人生も、やり方ひとつですばらしいものになる……そのやり方を、わたしは心得ているのさ……」 (p229)

しかしルパンはイジドールの相手をすることを、心から楽しみ、喜んでいますね。もちろん、これはルパン「負けず嫌いで冒険好き、手応えのある相手と駆け引きを楽しむ」という性格のせいでもありますが。
まるで「優秀な弟子を見つけ、導くことの出来る師匠の歓喜」というものも感じます。

「おや、目が潤んでいるね……友情が裏切られたのが、そんなに悲しいのかい……本当にかわいいね、きみは……思わず抱きしめたくなるよ……いつも驚いたような目をしているのが、胸に迫るんだ……」 (p227)

個人的には、シャーロック・ホームズは出てこなくても良かったんじゃないか、と感じずにはいられなかった。○○をするためだけに出てきたようで、かわいそう・・・。
ルパンに登場するホームズは、同名の別人だと思った方が無難でしょう。ホームズはワトソンくんがいて、はじめてシャーロック・ホームズなのだから。
まあ、これは仕方ないか。フランス人にフランス人を○○をさせるわけにはいかない・・・という作者の意識が、無意識に表れたからかもしれません。

「判事さん、それはじっくり考える時間がなかったからですよ。大事なのは考えること。たいていの場合、事実のそのもののなかに答えが隠されているんです」 (p31〜32)

2007年5月13日(日) at 22:51 / コメント( 2 )/ トラックバック( 0 )
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ブッデンブローク家の人びと(上巻) (トーマス・マン) / からな

> な行・は行のタイトル本
「分割払いとはね! 分割払いというのは、ある人間の支払い能力を試してみる便法ですよ!」  (p297)

岩波文庫。訳者は望月市恵さん。2005年の夏の一括重版で、入手。上巻を読んだのは2007年1月10〜16日。
文庫で全3巻ありますが、一巻ずつアップしていきましょう。

トーマス・マンの作品を読むのは、『ヴェニスに死す』(新潮文庫) を読んで以来。
(余談ですが、ヴェネツィア表記の方が、いいよね。光文社古典新訳文庫で最近発売されたものは、『ヴェネツィアに死す』になっていました)

『ブッデンブローク家の人びと』 を読むきっかけになったのは、これも高村薫さんの作品 『レディ・ジョーカー』(毎日新聞社) を読んだ時。主人公の一人・合田雄一郎さんのある時期の読書遍歴が紹介されていた部分がありました。


なるべく長いやつを選んで、七月には『ブッデンブローク家の人々』と『ユリシーズ』と『大菩薩峠』を読み、八月には『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『チボー家の人々』と続いてきて、まだ五巻目の三分の二が残っていた。 (『レディ・ジョーカー』下巻p264〜265)


ここで私は 『チボー家の人々』 を昨年読破し(←感想記事も、途中で止まったままやん)、『ブッデンブローク家の人びと』 を今年の初めに購読し、『カラマーゾフの兄弟』 を現在買っているわけです。(全巻揃ってから読みたいと思っている。・・・あくまで「思っている」です。今年中には、読む予定なし。読みたいのは、買ったままになっている 『罪と罰』)


前置きはここまでにして・・・。
見開きにある簡単な内容紹介には、「ドイツの一ブルジョア家庭の変遷を四代にわたって描く」とあります。
ブッデンブローク商会がどのように栄え、どのように危機を乗り越え、どのように名誉を手にし、どのように没落していったのか・・・。

最初はちょっととっかかりにくかったんですが、読み進むうちに、キャラクターを見守っていくような気持ちになっていく、この不思議さ。
アントーニエ(愛称トーニ)の愚かしさと無知と小賢しさが愛らしく思えたり、兄のトーマス(愛称トム)の頼もしさに、トーニを羨ましく思えたり・・・。
長編作品を読む時には、どうしてもキャラクターに愛着を覚えていきますね・・・えっ、私だけ?

当時のドイツの各都市の風習や生活、歴史背景・・・ナポレオンがヨーロッパ全土をかき乱した直後の頃から物語が始まるので、高校の世界史の授業でその辺りを習っていなかった私には、これはちょっと苦手な部分ではありました。
しかしナポレオンという存在が、市井の人々の意識を変えたというのは否めません。トーニの初恋の相手、モルテンが言うように・・・。


みんなが同一の権利を持つ国民の一人であって、神と庶民の間に仲介者が存在しなくなるように、市民は国家に直接向かい合うべきです! (中略) 真実はなんにも書いてはならないし、学生に教えることもならない。真実は、現行の秩序制度に一致しないだろうからというのです。……よろしいですか? 真実は抑圧され、発言は封じられたのです。 (中略)
暴力、この愚劣で粗野で、この世をわがもの顔にしている警察力、――精神的なもの、新しいものをなんにも理解できない警察力。  (p198)


更には商売やお金にまつわる内容も出てきますので、読むのが辛い部分もありました。
(この「辛い」というのは、決して私がそれらに疎いという意味ではなく、また別の意味でのこと)

何というか、身につまされるというか・・・(苦笑) お金は人を幸にも不幸にもするんです、はい。
今回最初と最後に取り上げた引用部分も、それに関するもの。

この瞬間になってから、「破産」という言葉の意味が、初めてはっきりとし、子供のころからその言葉に感じていた漠然とした恐ろしさが、よみ返ってきた。……「破産」……それは死よりもぞっとするものであった。混乱、崩壊、零落、汚辱、屈辱、絶望、悲惨であった。  (p309)

2007年4月1日(日) at 15:48 / コメント( 1 )/ トラックバック( 0 )
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本屋さんから20の質問 / からな

> 質問集の回答
という質問集を見つけましたので、回答してみました。
「本屋さん」というテーマと20問という少なさが、私向け(笑)
現役の書店員さんでいらっしゃる、やこすけさまのブログ 「ほんやさんの穴」から、お借りしました。
それでは、いざ挑戦! 
(2007.1.19 回答、追記しました。)

***

01)いらっしゃいませ。お客様のお名前と簡単なプロフィールを頂戴してよろしいですか?

 からな と申します。
 本を読むのが好き、本屋さんへ行くのが好きな人間。

02)ありがとうございます。さっそくですが、お気に入りの本屋さんがございましたら御紹介ください。

 「お気に入り=よく行き、よく買う本屋さん」と解釈して、とりあえず5軒挙げました。
 丸善 なんばOCAT店・・・適度な広さで、置いてある書籍の傾向も私向け。混みすぎず、立ち読みにも良い(笑)
 丸善 心斎橋そごう店・・・かつての心斎橋店が、そごうへ引越しした。中学生の頃から利用しているから、愛着はある。ただ、12階にあるのがイタイ。行くだけでひと苦労。ここも混みすぎず、立ち読みにも良い(笑)
 心斎橋アセンス・・・職場から最も近い本屋さん。私見だが「売れ筋」「ミーハーなもの」には、強い傾向を示していると思う。まるでフ○テ○ビのような本屋さん(笑) よそでは見つからないマンガもここにあったりするので、その点は重宝。
 ブックファースト 梅田店・・・大阪に引越ししてからよく行くようになった本屋さん。この梅田店は5000円以上買えば、喫茶コーナーで紅茶・コーヒー・ジュース等が無料で飲めるサービス券をくれるので、買う時は必ず5000円以上になるように計算している(笑) 店員さんによってはうっかりそのことを忘れている方もいるので、必ず聞くようにしている。今日(2007.1.19)寄ってみたら、また配置換えされていた。
 旭屋書店 天王寺MIO店・・・引越し前は、よく寄っていた本屋さん。以前は阿倍野区にあったが、「天王寺MIO」というショッピングモールの中に移動。高校が天王寺区にあったので、その頃から利用している。「MIOカード」を利用して買えばポイントがたまり、そのポイントで書籍を買っていた。昨年配置替えをしたのですが、個人的にはかなり不満。立ち読みしにくい!(苦笑)

 他にも行く書店はあることを、明記しておきます。

03)本屋さんにはどれくらいの頻度でお寄りになりますか? また理由などございましたらぜひ。

 最低でも週1〜2回。そうしないと、精神的に良くない。情緒不安定になってしまう。

04)本屋さんにお寄りになったら、どれくらいの時間を店内で過ごされますか?

 最低5分。平均30分〜1、2時間。今までの最高は約6時間。

05)立ち読みはお好き?

 大好き! 立ち読みこそ、書籍を選ぶ命綱。立ち読みは読書の醍醐味だと思っています。

06)お目当てがあっての御来店派? それともぶらぶらとお散歩派?

 両方ですね。目当ての書籍の発売日は寄りますし、帰宅時に突然「今日は書店へ行こう」と寄ることもあります。

07)古本屋さんにない本屋さんの良さなんて、あります?

 落ち着く。居心地がいい。綺麗。清潔感がある。種類が豊富。
 古本屋さんは滅多に利用しないので、コメントしづらいのですが・・・。

08)よく御覧になる棚はどんなジャンル? お気に入りがありましたら一冊挙げてください。

 新書、選書、学術文庫、教養文庫、各社の文庫、歴史関連、文化関連、パソコン関連、芸術関連、マンガ、ギリシア神話・・・挙げきれない。興味あるジャンルが幅広いので。

09)ジャンルに関わらずよくお手に取られる本、お気に入りがありましたら、何冊でも挙げてください。

 「お気に入り」というその点で絞ると、新書・選書・学術文庫・教養文庫は、手に取ります。

10)定期購読している雑誌や書籍はございますか?

 文芸誌「新潮」。但し、高村薫さんの連載が完結するまで。

11)ISBNコードって御存知ですか?

 一応は、知ってます。詳しく説明を、と言われたら出来ませんが(笑)

12)ポップ(本の広告)を御覧になって予定外のお買いあげをされたことはありますか?

 ほぼ皆無。信用している他人の評価なら信じるが、基本的には自分の目で確認し、自分の責任で書籍を選びます。中身をパラパラ見ないと、自分の感性・好みに合うかどうか分からないから。

13)本屋さんで大体どれくらいの金額のお買い物をされますか?

 「1冊買うなら」と限定して回答。
 マンガ1冊ならば、最低410円はしますしね。
 新書1冊ならば、最低700〜800円ですね。
 文庫1冊ならば、出版社やレーベル、分厚さによってピンキリですからね。500円玉でおつりがある文庫もあれば、2000円札でおつりがある文庫もありますから。
 単行本1冊ならば、数千円しますしね。

 ちなみに一回での最高冊数は10冊。同じく最高金額は10000円未満。

14)ブックカバーは御利用ですか? しおりは?

 ブックカバー・・・はい。断る時もありますが、お気に入りの書店のブックカバーは、出来るだけかけてもらいます。上記に上げた書店では、丸善やアセンスのカバーは好き♪ あとは近鉄阿倍野店に入っている書店のブックカバー。パステル調の緑色が綺麗なので。

 新書・文庫は、出版社のプレゼントで貰った専用のブックカバーの使用が多いです。専用のブックカバーを持っていない選書・単行本は、出来るだけ書店でかけてもらうようにしています。但し、家で読む書籍にブックカバーはしません。

 しおり・・・はい。書店によっては、言わずともはさんでくれますね。アセンスの定規のようなお洒落なしおりは好き♪
 たまに美術展の割引券を兼ねたようにものもいただきます。昨年のヒットは、源氏物語絵巻とプラド美術館。知的な雰囲気がいいし、私もそういう芸術は好きなので。

 新書・文庫は、初めからはさんであるものを利用するのが多いです。

15)本屋さんではさまざまなフェアを行いますが、お客様プロデュースのフェアを提案してみませんか?
  テーマやラインナップをどうぞ。


 メジャー向け・・・作家のデビュー作特集。
 マイナー向け・・・高村薫作品に登場する、書籍や作家のフェア。

16)お客様から本屋さんに、御意見御要望はございますか?

 多忙な書店員さんに「この本、ありますか?」と尋ねるのは気がひける場合が多いので、情報検索機器を出来るだけ設置して下さい。

17)本屋さん側にも、お客様に最低限守っていただきたいマナーがあります。
  なにか意識してくださっていること、ありますか?


 書籍や雑誌の上に、書籍や雑誌以外のものを置かない。これをやられると、探している書籍や雑誌が見つからない場合があるから。
 また、私は絶対やりませんが、携帯電話を利用すること。店内を喋りながら移動するのは、はっきり言って迷惑・邪魔。それに写メールで撮影してるのって、盗撮じゃありませんか?

18)本屋さんにまつわる思い出などございましたらお聞かせいただけますか?

 小学1年生の時に、隣に書店が出来たのが、私の人生を決定付けたものと確信している。そうでなきゃ、今まで書籍やマンガを購読していない。
 その当時は、「何曜日にはこのマンガ雑誌の発売日、何日にはあのマンガの発売日」と覚えていたくらい。
 たまに、夢で出てくると泣きたくなるくらい嬉しい、「心のふるさと」と言っていい本屋さん。残念ながら、既に閉店されたそうです。

 高校3年生の冬、『銀河英雄伝説』にはまって、2学期の期末試験の合間の休日に天王寺に買いに行った。10冊買ったのだが、その時の店員さんに言われたひと言は、今も忘れられない。

   「カバー、かけなくてもいいですね」

 「10冊もカバー、かけてられるか!」という店員さんの内心の声が聞こえたのは、言うまでもない。

19)本屋さんのどんなところがお好きですか?

 「本屋さん」というただそれだけで、好き。書籍がたくさん置いてあるだけで、幸せ。

20)最後に御来店記念日(本日の日付)をお記しください。

 2007年(平成19年)1月18日(木)です。19日(金)に、追記しました。ありがとうございました。

***

後日、追加修正するかもしれませんが、こんなふうになりました。
やこすけさま、ありがとうございました。

2007年1月18日(木) at 23:38 / コメント( 4 )/ トラックバック( 0 )
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破局 (ダフネ・デュ・モーリア) / からな

> な行・は行のタイトル本
あなたの目の前に この世でもっとも危険な陥穽が口を開いている (帯コピー)

早川書房。訳者は吉田誠一。買ったのは2006年6月。読んだのは7/8〜7/13。
この記事 にも書いたが、復刊ドットコム で私もリクエストしていた。
<異色作家短編集>シリーズ 全20巻 の一冊として、何と42年ぶりの復刊! 42年前って・・・私は生まれてません(笑)

『書物の王国8 美少年』 (国書刊行会) というアンソロジーで、ダフネ・デュ・モーリアの 「美少年」 という作品が収められていて、それが面白かったので、これが収められている書籍の 『破局』 を読んでみたいなあ、と思ったのがきっかけ。

災いの匂いは致命的なもの。侵入し、喉を詰まらせ、同時に戦いをいどむ。 (「美少年」p122)

6つの作品からなる中短編集である 『破局』 の原題は、「THE BREAKING POINT」「破局」 という作品はありません。全ての作品に共通するテーマといっていいのが、この言葉でしょう。

以下は、作品収録順ではなく、私が読んだ順に簡単に感想等を述べていきます。

「アリバイ」 (原題:The Alibi)

「奴らは知らないんだ」と彼は考えた。「家の中にいる人間どもは……おれの身振り一つで、今、この瞬間、自分たちの世界が変わってしまうかもしれないということを」 (「アリバイ」p10)

再読必至の、摩訶不思議な作品。
「ええ〜!? どこからどこまでが「嘘」で、どこからどこまでが「事実」なんだ!?」と読了時にうろたえてしまった(苦笑)

「あいつはおれを信じてくれない――決して信じてくれないだろう」 (「アリバイ」p56)

の台詞が、私が混乱した要因かも知れない。一種のリデル・ストーリーとしても読めるのでは?


「青いレンズ」 (原題:The Blue Lenses)

耳というものはなんてあてにならないものだろう、真実の裏切り者だ、とマーダ・ウェストはおもった。 (「青いレンズ」p97)

目の手術をして新しいレンズを入れた主人公が見る、奇妙で奇天烈な世界。見えるものだけが真実ではないし、目で見えないからといって、本性が感じ取れないわけではない、という典型的なパターンだが、最後のオチで、「その後、どうなったんだろう」と思わずにはいられない物語。


「荒れ野」 (原題:The Lordly Ones)

「荒れ野(ムア)」という言葉そのものに、暗い不吉な響きがこもっている。一種の脅し。 (「荒れ野」p210)

解説で関口苑生さんが書いているように、一番突飛な設定かもしれない・・・らしい?
異なった生物間では、「言葉」がなくてもある程度の「意思の疎通」は出来るものなのか? という問いかけのように私は解釈しましたが・・・これを読まれた皆さんはいかがでしょうか?


「あおがい」 (原題:The Limpet)

どうみてもわたしは鈍感な女ではない。それが苦労の種なのだ。他人の感情に無感覚になれたら、人生はがらりと変わったものになるのだが。 (「あおがい」p231)

自分よりも他人の「幸福」を優先してきた主人公の「不幸」の話。他人が「不幸」になったことは、自分のせいだと気づいていないところに悲劇があり、主人公の正義感に似た「思い込み」の深さにも救いがなく、読み手は薄ら寒さを感じてしまう。

傷つけられたときは、黙っているほうがはるかに品位があるものだ。 (「あおがい」p233)

噂は往々実現するものなのだ。きょうの願望充足は明日の事実なのだ。 (「あおがい」p251)

・・・そうかなあ? 時と場合によると思うが。

原題の「Limpet」の意味が解らなかったので、調べてみた。「【貝】カサガイの類; ツタノハガイ」、そこから転じて「しがみつく人」の意味に。・・・なるほど、と意味を知って作品を読めば、納得。
そして、人間の抗い難い深奥も垣間見させてくれる。

妙なことだが、どんなに理性的な人でも称賛にはよわい。どんなにべた褒めしても、いい気になるものだ。 (「あおがい」p255)

主人公の最後の独白は、誰もが思うことだろう。そして否応なしに気づく。過ぎ去った時間は二度と戻らないことを。やり直しはきかないことを。

わたしが知りたいのは、自分はいったいどこで人生の道を誤ってしまったのかということだ。 (「あおがい」p259)

どうしてわたしはこんなに運が悪く、こんなに不幸なんだろう?
わたしはどうしたらいいのだろう?
 (「あおがい」p259〜260)


「皇女」 (原題:The Archduchess)

西欧人は決して満ち足りることを知らない。満足することは許しがたき罪である。西欧人はたえず、ある見えざる目標に向かって邁進する――たとえそれが物質的快楽であれ、より偉大で、より純粋な神であれ、宇宙の支配権を握るような武器であれ。それを意識すればするほど、気ぜわしく貪欲になり、結局はそこに戻らなくてはならないにせよ、自己が生まれ出てきた境遇に満足することを知らず、つねに改善をこころがけていながら同胞を奴隷と化している。 (「皇女」p168)

「ロンダ公国」という南ヨーロッパにあるという設定の、架空の国で起こった一大事件。つまり革命が起きて、「ロンダ共和国」になったのだ。その一部始終を簡潔に物語った内容だが、さまざまな含蓄や揶揄が満ちた作品でもある。

噂は勇気ある者をも臆病にし、冷静な者をも恐怖に陥れる。 (「皇女」p183)

問題は、民衆が疑い出せばキリがないということにある。疑惑は疑惑を呼び、もはや安全なものはなく、信頼すべき人間もいない、ということになる。信頼感を失った人間は魂をも失う。 (「皇女」p196)

憶測というものはいつも食いちがうものだ。確かなことなど、だれも知りはしない。 (「皇女」p197)

以上に取り上げた内容からも解るように、「統治される側の群集心理の怖さ」というものも、教えてくれる。それを利用しての「革命の良し悪し」が、この作品の「怖さ」でもあるのだろうか。


「美少年」 (原題:Ganymede)

この存在しない自己は、全神経繊維、全脳神経細胞、全血球で、この男が生死の施主、不死の者、愛人たるゼウスであり、彼のほうにやってくる少年がその愛人、酌取り、奴隷たるガニメデであることを知った。 (「美少年」p117〜118)

原題は、ギリシア神話の大神・ゼウスに見初められて誘拐された美少年・ガニュメデスのこと。神々の食事の席で、お小姓としてお酒を注ぐ役を果たし、後にみずがめ座となった。

『書物の王国8 美少年』 (国書刊行会) で初めて読んだ時、クライマックスに悲惨な展開があるんだが、最後の段落で大笑いを余儀なくされた作品。

わたしの人生はかなり変わってしまった。 (「美少年」p156)

要するに……わたしは変わってしまったのだ。 (「美少年」p156)

という文章が最後にあるのだが、「そういう意味の変わり方かい!」とツッコミせずにはいられないオチだった。

「以前ここにきたことがある」という感じとは違う。「生まれ変わったのだ」というロマンチックな夢とも違う。あたかも直観的に、ついに自分自身になったというような感じだった。わたしは到着したのだ。ほかならぬこの瞬間がわたしを待ち受けていたのであり、わたしのほうもこの瞬間を待ち受けていたのだ。 (「美少年」p116)

トーマス・マンの『ヴェニスに死す』 を知っていたら、秀逸なパロデイ、または偉大なるオマージュとしても読める作品。
パロディもここまで突き詰めて独自のオチを持ってくると、本家に匹敵する価値がありますね。

『不快な』というのは、いまわしい言葉だ。辞書に載っている言葉のなかで、もっともいまわしい言葉だ。生のみならず、死における醜悪なものすべてを連想させる言葉だ。快いものは歓喜であり、活力(エラン)であり、心身一致に伴う情熱である。不快なものは、悪臭を放つ植物の腐敗であり、腐った肉であり、運河の底の泥である。 (「美少年」p111)

とりあえずは、この主人公に幸あれ! と願っておこう(笑)


幸か不幸か、この作家の名前は、ヒッチコックの映画と切っても切れないようになっている。(「レベッカ」 「鳥」 の原作者なので)
それだけがこの作家の魅力じゃないのよ・・・と、本書を読めば、新たな一面を見い出すことが、出来るはず。
私は充分、楽しみましたよ♪

2006年7月17日(月) at 21:54 / コメント( 4 )/ トラックバック( 3 )
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2006年6月17日に、本、当たったで♪ / からな

> 本にまつわるエトセトラ♪
松原聰 『ダイヤモンドの科学』 (講談社ブルーバックス)

講談社BOOK倶楽部のメールマガジンのプレゼント で当選しました!

***

だがしかし!
こちらの記事をご覧あそばせ。

私、既に買ってるんですよ〜!! 当選しないと思ったから〜!!

しかも1週間前に読了したばかりなんですよ〜!!

おまけに約1年前にも、読了した日に応募した本が届いたことがあるんですよ〜!!

運がいいんかどうかわからへんよ〜!!


当選したのは本当に嬉しい。嬉しいけれど、複雑な想いも否めない・・・。当たると判っていたら、買ってません(←そんなムチャな・苦笑)

だけど、せっかく当たったんですから、売ったりはしません。大事においておきます。

講談社さん、ありがとうございました。これに懲りずに、また当選させてくださいね  お願いします!

【追記】 証拠として(苦笑)、写真に収めましたのでアップします。


2006年6月17日(土) at 20:52 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
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チボー家の人々2 少年園 (ロジェ・マルタン・デュ・ガール) / からな

> た行のタイトル本
「だまって、だまって……兄さんにはわからないんだ。兄さんにはとてもわからないんだ……」 (p185)

白水uブックス。訳者は山内義雄。読んだのは2006年1月9日から12日。
これも風邪をひいて、しんどい時期に読んでました。

「少年園」。この聞き慣れない言葉。「感化院」もしくは「少年院」の方が、日本人にはしっくりくると思う。
1900年代のフランスには、とっくにあったのですね。
日本と違うのは、宗教色が強いことではないでしょうか。日本では、「感化院」は宗教法人が管轄していない限り、ミサやお経もあげないでしょう。(日本の「少年院」は個人施設ではありませんしね)

前巻の 『チボー家の人々1 灰色のノート』 の最後で、父親のオスカールによって少年園へ収容されることになったジャック。
しかもそれがオスカール・チボーの名を冠した施設だから、そういう意味では「父親の支配」からは未だに逃れられないことになる。
そのジャックの暮らしている少年園へ、兄のアントワーヌが訪ねるところから、第2巻が始まる。

弟の変貌に驚くアントワーヌ。兄と過ごすうちに、徐々に本心や生活ぶりを吐露していくジャック。
「このままではいけない」と感じたアントワーヌは、父の反対を押し切ってジャックをパリに連れ戻す。

《ヴェカールさんは〈チボー家の自負心〉とも言った。たとえばおやじのごとき……たしかにそれだ。だが、このおれは、そうだ、もちろん自負心の持ち主だ。それを持っているのがどうして悪い? 自負心というやつ、それはおれにとってのてこなんだ。あらゆる力を動かすてこだ。おれはそれを使う。おれにはそれを使う権利がある。何よりさきに自分の力を利用すること、それが肝心ではないだろうか? しからば、このおれの力とはいったいなんだ?》 (p148)

この頃のアントワーヌも、前巻のジャックやダニエルとはまた違った意味で、「若いな・・・」「青いな・・・」と感じてしまう。前者二人は十代の若さと青さ、後者は二十代の若さと青さですが・・・このニュアンスの違い、分かりますかねえ?

《それはよくわかっている。まず、おれは理解が早い。そして物おぼえがいい。これは何物かだ。つぎには勉強の能力。〈チボーのやつは牛のようにはたらく!〉大いにけっこう。言いたいやつには言わせておくさ! みんな、できればそうしたいと思ってるんだ。つぎにはなんだ? 精力、そうだ、あの〈す――ば――ら――し――い――精力〉》 (中略) 《それは一種のポテンシャルというようなものだ……それは十二分に充電され、働きかけるばかりになっていて、このおれに、どんなことでもさせてくれるところの蓄電池だ。だが、たといそれらすべての力があったにしても、ねえ神父さん、それを使うてこがなかったらどういうことになりましょう?》 (p148〜149)

前途有望、優秀、研究熱心な小児科医アントワーヌ・チボーの誕生。その輝かしい未来に酔っている観があるアントワーヌ。
でも、その気持ちは分からないでもないんですよ・・・。我が身を振り返ってみますとね・・・(苦笑)

「兄弟! それは単に、血をおなじくしているというだけのことではない。生まれたときから、まったく株をおなじくし、樹液をおなじくし、いきおいをおなじくしているということなんだ! ふたりは単に、アントワーヌ、ジャックというふたりの個人ではない。ぼくたちは、チボー家に生まれたふたりの人だ。われらはじつにチボー家なのだ」 (p164)

九歳も年の差のあるアントワーヌとジャック。このひとときが、二人が初めて「兄」「弟」と認識し合った証ではなかろうか。「チボー家の人間」であると認知した瞬間ではなかろうか。
「チボー家の人間」・・・それはつまるところ、彼らの父・オスカールの血を、いやでも受け継いでいるということに、二人はまだ自覚していないように見受けられる。

パリに戻ったジャックは、早速ダニエルと会おうとするが、オスカールに禁じられ、アントワーヌにも止められる。諍う二人。世間一般で言う「兄弟喧嘩」とは程遠く、保護者と被保護者という関係にも見える。

アントワーヌの付き添いで、ようやくジャックはフォンタナン家でダニエルと会うことになる。妹のジェンニー、そしてノエミ・プティ・デュトルイユ(ジェローム・ドゥ・フォンタナンの愛人の一人)の娘・ニコルとも知り合う。
ニコルは、ブリュッセルから逃げてきたのだった。

そのニコルに惹かれるダニエル。何とか口実を設け、既成関係(・・・という表現しか思い浮かびません・苦笑)を作ろうとするダニエルに、ニコルはジェロームの面影を見る。母を誘惑した男と同じ顔を。

「あたしの一生をだいなしにしないで」 (p239)

ニコルは、ダニエルの誘惑をはねのけた。
前巻で「男女の快楽」を知ってしまったダニエルは、これに懲りずにこれからも「男女の快楽」を追求していくんだろう。期せずして、父・ジェロームとそっくりに。その因果応報、しっぺ返しは、次巻の第三部で語られるだろう。

一方のジャックにも、初体験の機会が訪れる。チボー家の家番のフリューリンクばあさんの姪・リスベットがその相手。(ジャックは知る由もないが、彼女はアントワーヌとも関係を持っていた)

一度はジャックの前から姿を消したリスベット。しかしフリューリンクばあさんが死亡した時、再び姿を現し、二人は結ばれる。最初で最後の行為。

こうしてジャックは、身体上では少年期を脱した。しかし精神上では、未だに「少年」を残している。年齢や経験を重ねても、精神的に「大人」になれない人間は多々いるが、ジャックもそういう人間の一人。

少年園で自我を殺されるような生活を送り、少年園を出た後に、諸々の現実にぶち当たり、困難を直視し、対峙しなければならないことに、「少年」であるジャックは、どう対応していくのか。

「孤独というものは、人を変えてしまうからな」 (中略) 「あらゆることに無神経になっちまうんだ。何かしら、こうぼんやりした恐怖とでもいったようなものがいつも身について離れないんだ。何か動作をする。だが、何も考えてなんかいないんだ。長いうちには、自分がいったい誰なのか、自分がはたして生きているのか、それさえ忘れてしまうんだ。とどのつまりは死んでしまう……それでなければ、気ちがいになるんだな」 (p214〜215)

2006年5月5日(金) at 20:33 / コメント( 0 )/ トラックバック( 0 )
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チボー家の人々1 灰色のノート (ロジェ・マルタン・デュ・ガール) / からな

> た行のタイトル本
「家では」と彼はつづけた。「誰もわかってなんかくれやしない。もしぼくが詩をつくってるなんてわかったら、きっとじゃまされるにきまってるんだ。ところが、兄さんは――兄さんは、あの人たちとはちがってる」 (p165)

白水uブックス。訳者は山内義雄。読んだのは2006年1月5日と6日。
ちょうど風邪をひいてしんどい時期で、第1巻は医院の待合室で読了したんです。そのせいでちょっと内容の記憶があいまいだったりも・・・(苦笑)

『チボー家の人々』 を読もうと思ったきっかけは、高村薫 『レディ・ジョーカー』 並びに 五木寛之・塩野七生 『おとな二人の午後』 に登場していて興味を持ったから。
去年の自分への誕生日プレゼントとして、二日で全13巻買いました。

今回記事にするにあたり、付箋紙を貼った部分だけ読み返してみました。uブックス版で全8部・全13巻に及ぶ大作ですし(単行本では全5巻)、一括で記事にすることは私には到底出来ないので、1巻ずつ簡単な内容と感想などを、多少のネタバレを交えてアップしていきます。

タイトルは 『チボー家の人々』 であっても、実質はカトリックのチボー家と、プロテスタントのフォンタナン家を中心に展開していく。
まずは主人公の一人であるジャック・チボーの人物描写を、ダニエル・ドゥ・フォンタナンからの視点で取り上げておく。

自分自身を、ただ習慣と規律の中に眠らせている少年たちあいだにあって、また、年齢やしきたりの中にエネルギーをつかいはたしてしまった教師たちのかたわらにあって、この一見無愛想な顔だちでいながら、いつも淡白さと強い意思の爆発をしめしつづけていたなまけ者の少年――自分で、そして自分自身のためだけに作った気まぐれな世界の中に住んでいるといったようなこの少年、危険などは物ともせず、なんらためらうことなく、突拍子もないできごとの中に飛びこんで行くといったようなこの少年――この小さな怪物とでもいったようなこの少年こそは、一方では人々に恐怖の念を起こさせるとともに、他方では、無意識のうちに、尊敬の気持ちを起こさせずにはいなかった。 (p99)

物語は1904年のフランス・パリ、共に十四歳のジャックとダニエルが、学校側からのある仕打ちに耐えかねて家出を決行してしまい、ジャックの父で実業家のオスカール、兄で小児科医のアントワーヌが、学校に向かうところから始まる。

ある仕打ちとは、ジャックとダニエルが取り交わした秘密のノート――日本の言葉で置き換えると「交換日記」ですね――が学校側に見つかり、二人に「同性愛」の嫌疑がかけられたこと。
このノートが、今回のタイトルにもなっている。

十四歳の二人が取り交わした内容は、大人の私が読むと「若いな・・・」「青いな・・・」と感じる。しかし少年少女だった十代の頃ならば、この程度は背伸びしていたかもしれない、と多少の懐かしさも覚えた。
俗な言葉で言えば、冒頭に挙げたジャックの言葉にあるように、「大人はわかってくれない」のだ。

ああ! なんとしてでもこうした心の涸れないように! おそれるところは、生活が、心や感覚を硬化させてしまうことだ。ぼくは老いる。神、聖霊、愛、そうした高邁な観念は、すでに昔のようにぼくの心に響きを立てない。そして、すべてをむしばむ《疑惑》は、おりおりぼくをも食んでいる。おお、論議をすてて、なぜ全身の力をあげて生きようとはしない? ぼくらはあまりにも考えすぎる。ぼくのうらやむのは、あの青春の意気なのだ。つまり、わきめもふらず、考えなおしたりすることなく、危険めがけておどりかかっていくことなのだ! (p84)

ダニエルの執筆したものから、一つ抜粋。今どきの日本の十四歳は、こんなことを考えているんだろうか・・・?

卑怯な振舞いはぜったいやめよう! 嵐に向かって突進するのだ! むしろ進んで死をえらぼう!
われらの愛は、誹謗、威嚇の上にある!
ふたりでそれを証明しよう!
  命をかけてきみのものなる
                          J.
 (p93)

Jはもちろん、ジャックのこと。ノートに挟まれていたこの手紙の一文で、二人の「同性愛」の嫌疑が決定的なものになってしまった。
家も学校も飛び出した二人は、しかし、そのような関係に陥ることはなかった。
二人が「同性愛の関係」にあると周囲が誤解するかのような言葉のやり取りは、「肉体の関係」ではなく、「精神と魂の関係」であったから。それを害され、邪魔されたので、二人は憤慨して家と学校を飛び出したのだ。

この二人は周囲が懸念しているように、決して「肉体の関係」に進むことはない。むしろ「精神と魂の関係」に、ぐらつきが見え始める。それを示す秀逸な描写がある。家出の初日、宿をとり、空腹のまま部屋に入った場面だ。

部屋にはいるなり、お互いの見ている前で裸にならなければならないことに気のついたふたりは、おなじことを思って当惑していた。 (p95)

精神や魂の素晴らしさと美しさを高く謳い上げる言葉は、空腹、疲労、眠気などの前には、何の役にも立たないことを知る。初めての現実を直視し、認識したのが、お互いの裸体を見た瞬間に起こったのが、皮肉。

この家出期間中、ジャックとはぐれたダニエルは、ひょんなことから見知らぬ女性の家に泊まり、初体験を済ます。
ここでダニエルは「少年」から「大人」へと変化してしまった。この「変化」が、良いものになるか悪いものになるかは、次巻以降を読まねば解らない。

結局二人は見つかり、パリに連れ戻される。二人の魂で結ばれた信頼関係の証明も出来ず、死を選ぶこともなく、悲しくも現実に破れたのだ。
ダニエルは母親によって優しく受け入れられたが、ジャックは厳格な父親によって、処罰を与えられる。それは第2巻の物語へ続く・・・。

第1巻の「メインストーリー」は以上だが、私はそれにはあまり興味を覚えなかった。ジャックとダニエルに共感しにくかった、というのが正直なところ。この年代の少年って、ホントに難しい部分がありますからね。
「少年」というものは、女性には永遠に解けない謎のような存在だから。

それに長い小説の、ほんの出だしの部分。これからどういう展開を見せるのか、読み手は書き手の繰り出す物語に、身を委ねるしかないからです。

それでも興味をひいた部分はやはりあって、私の場合、ダニエルの母のテレーズ・ドゥ・フォンタナン夫人の存在が、それに該当する。
ダニエルの家出に加え、娘でダニエルの妹・ジェンニーが倒れ、心身ともにまいった状態でありながら、頼りになるのは放蕩者であっても夫であるジェロームしかいないと、心当たりを訪ね歩く姿の愚かしさが、印象に残った。

このジェロームという男が、もう本当にどうしようもない男で!(笑) ある女性を陥落させては、また別の女性を手中に・・・の繰り返し。
この第1巻だけでも判明しているのは、フォンタナン家で働いていた女中のマリエットと、フォンタナン夫人のいとこにあたるノエミ・プティ・デュトルイユを誘惑し、挙げ句の果てにノエミの小間使いと逃げた・・・という凄まじさ。

こういうタイプの男は、呆れるほどに古今東西を問わずにいるもんだなあ。
そして、こういう男と別れられない哀れな女も。「今度ばかりは許さないでおこう」「今度こそ別れよう」と決意しても、フォンタナン夫人は、男の繰り出す巧みで悪知恵の働いた言葉、自己弁護に満ちた甘美な言葉に惑わされ、毅然とした態度をとっても、今回も許してしまうのだ・・・。
私がフォンタナン夫人を「愚かしい」と評した要因が、ここにある。

「悪しき所業には、悪しき動機という以外に、ほかに動機があり得るんだ。人はとかく、本能のはげしい満足といったように考えやすい。だが、事実においては、往々、いや、しばしば、それ自身としてりっぱな感情――たとえばあわれみといった感情に動かされてやっていることがあり得るんだ」 (p153)

2006年3月20日(月) at 00:04 / コメント( 0 )/ トラックバック( 1 )
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湖畔 ハムレット (久生十蘭) / からな

> か行のタイトル本
女というものは誰もみな覗きこんでも底の見えない、深い淵のようなものを一つずつ胸のうちに持っているように思えてならない。
「女の心はわからない」
主水は口のなかで呟いた。
 (「鈴木主水」p137)

講談社文芸文庫。読んだのは2005年12月15日〜20日。
「久生十蘭作品集」と銘打っているように、「湖畔」 「ハムレット」 「玉取物語」 「鈴木主水」 「母子像」 「奥の海」 「呂宋の壺」 の7つの中短編が収められています。

朝日文庫で出た 『十字街』 『魔都』 以来、約10年ぶりに十蘭の作品を読んだので、十蘭独自の感性や、物語の展開の唐突さや奇想天外さ、またそれらを納得させるだけの説得力のある描写に、「懐かしい」と感じたり、「やられた〜!」と叫んだり・・・。
この人は、本当に「物語」を作るのが好きなのだな、読み手を楽しませるのが好きなのだな、と思う。

「けっきょくハムレットの悲劇は、気狂いの妄想でまわりの人間がつぎつぎに犠牲になっていく、『狂気の悲劇』とでもいうようなものなのね」 (「ハムレット」p76)

十蘭の作品を読むコツ・楽しむコツは、ただ一つ。読み手は何の疑問も差し挟まずに、十蘭の繰りだす物語世界に身を委ねるだけ。そうすれば最後には、吃驚仰天するような結末を味わえる(時がある)。
その感覚を味わいたいがために、私は十蘭の作品を読んでいるのだろうと思う。

「恋だとは思えないが、これが恋というものなのか。ひだるさより、いとしさが先に立つというのは、おかしなことだ」 (「奥の海」p170)

私は世に言う「ジュウラニアン」ではない。堂々と名乗れるほど、十蘭の作品を読んでいるわけではない。よくて「隠れジュウラニアン」か「ジュウラニアンの卵」程度だろう。
だけど、これからも新規で文庫が発売されたら、読んでいくだろうことは確実だ。

一発では正しく読めない、「久生十蘭」 という名前が好きなんだと思う。ご本人も大層気に入っているというこのペンネームの持つ魅力と魔力に、既に私は虜になっているのだ。

そして独特の十蘭ワールド。一度それを味わって、その魅力と魔力に相性が合うのなら、「ジュウラニアン」の素質は充分にある。
全作品を読んだわけではないからえらそうなことは言えないが、作品の出来・不出来、完成度の高低は、あるとは思う。だけどそれを凌駕して余りある「何か」が、十蘭の作品にはある。
それを私は知りたい。味わいたい。だから読むのだ。

以下、各々の感想をひと言ふた言添えておく。

「湖畔」 ・・・初っ端から十蘭マジックにやられたわ。この奇想天外さと人間の残酷さ。(←褒めてるのよ) んもう〜!

「ハムレット」・・・これもやられたわ。この登場人物たちのえげつなさ。(←褒めてるのよ) んもう〜!

「玉取物語」・・・男性ならば、このお殿様の苦しみはものすごく解るだろう(苦笑) 淡々とした描写なだけに、余計に際立つ。

「鈴木主水」・・・第二十六回直木賞受賞作。ままならぬ世、ままならぬ男と女の不可思議な恋の道。

「母子像」・・・「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙主催の、第二回世界短編小説コンクールで、第一席に輝いた作品。主人公・太郎の乾いた雰囲気は、現代の青少年にも相通ずる部分があるように感じる。いや、いつの時代も青少年という存在は、こんな感じなのかもしれない。

「奥の海」・・・何でこの展開からこんな結末に・・・? と叫ばずにいられない。(←褒めてるのよ) このような男性主人公のやるせなさは、「鈴木主水」 にも滲み出ている。いや、他の作品でも共通のものか。

「呂宋の壺」・・・権力者の気まぐれに振り回される人たちの悲しさと愚かしさは、古今東西、不変のものか。

「することなんか、あるわけはない。ぼくには、明日というのがないんだから」 (「母子像」p157)

2006年1月13日(金) at 23:36 / コメント( 0 )/ トラックバック( 1 )
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