チボー家の人々2 少年園 (ロジェ・マルタン・デュ・ガール) / からな
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「だまって、だまって……兄さんにはわからないんだ。兄さんにはとてもわからないんだ……」 (p185)
白水uブックス。訳者は山内義雄。読んだのは2006年1月9日から12日。
これも風邪をひいて、しんどい時期に読んでました。
「少年園」。この聞き慣れない言葉。「感化院」もしくは「少年院」の方が、日本人にはしっくりくると思う。
1900年代のフランスには、とっくにあったのですね。
日本と違うのは、宗教色が強いことではないでしょうか。日本では、「感化院」は宗教法人が管轄していない限り、ミサやお経もあげないでしょう。(日本の「少年院」は個人施設ではありませんしね)
前巻の 『チボー家の人々1 灰色のノート』 の最後で、父親のオスカールによって少年園へ収容されることになったジャック。
しかもそれがオスカール・チボーの名を冠した施設だから、そういう意味では「父親の支配」からは未だに逃れられないことになる。
そのジャックの暮らしている少年園へ、兄のアントワーヌが訪ねるところから、第2巻が始まる。
弟の変貌に驚くアントワーヌ。兄と過ごすうちに、徐々に本心や生活ぶりを吐露していくジャック。
「このままではいけない」と感じたアントワーヌは、父の反対を押し切ってジャックをパリに連れ戻す。
《ヴェカールさんは〈チボー家の自負心〉とも言った。たとえばおやじのごとき……たしかにそれだ。だが、このおれは、そうだ、もちろん自負心の持ち主だ。それを持っているのがどうして悪い? 自負心というやつ、それはおれにとってのてこなんだ。あらゆる力を動かすてこだ。おれはそれを使う。おれにはそれを使う権利がある。何よりさきに自分の力を利用すること、それが肝心ではないだろうか? しからば、このおれの力とはいったいなんだ?》 (p148)
この頃のアントワーヌも、前巻のジャックやダニエルとはまた違った意味で、「若いな・・・」「青いな・・・」と感じてしまう。前者二人は十代の若さと青さ、後者は二十代の若さと青さですが・・・このニュアンスの違い、分かりますかねえ?
《それはよくわかっている。まず、おれは理解が早い。そして物おぼえがいい。これは何物かだ。つぎには勉強の能力。〈チボーのやつは牛のようにはたらく!〉大いにけっこう。言いたいやつには言わせておくさ! みんな、できればそうしたいと思ってるんだ。つぎにはなんだ? 精力、そうだ、あの〈す――ば――ら――し――い――精力〉》 (中略) 《それは一種のポテンシャルというようなものだ……それは十二分に充電され、働きかけるばかりになっていて、このおれに、どんなことでもさせてくれるところの蓄電池だ。だが、たといそれらすべての力があったにしても、ねえ神父さん、それを使うてこがなかったらどういうことになりましょう?》 (p148〜149)
前途有望、優秀、研究熱心な小児科医アントワーヌ・チボーの誕生。その輝かしい未来に酔っている観があるアントワーヌ。
でも、その気持ちは分からないでもないんですよ・・・。我が身を振り返ってみますとね・・・(苦笑)
「兄弟! それは単に、血をおなじくしているというだけのことではない。生まれたときから、まったく株をおなじくし、樹液をおなじくし、いきおいをおなじくしているということなんだ! ふたりは単に、アントワーヌ、ジャックというふたりの個人ではない。ぼくたちは、チボー家に生まれたふたりの人だ。われらはじつにチボー家なのだ」 (p164)
九歳も年の差のあるアントワーヌとジャック。このひとときが、二人が初めて「兄」「弟」と認識し合った証ではなかろうか。「チボー家の人間」であると認知した瞬間ではなかろうか。
「チボー家の人間」・・・それはつまるところ、彼らの父・オスカールの血を、いやでも受け継いでいるということに、二人はまだ自覚していないように見受けられる。
パリに戻ったジャックは、早速ダニエルと会おうとするが、オスカールに禁じられ、アントワーヌにも止められる。諍う二人。世間一般で言う「兄弟喧嘩」とは程遠く、保護者と被保護者という関係にも見える。
アントワーヌの付き添いで、ようやくジャックはフォンタナン家でダニエルと会うことになる。妹のジェンニー、そしてノエミ・プティ・デュトルイユ(ジェローム・ドゥ・フォンタナンの愛人の一人)の娘・ニコルとも知り合う。
ニコルは、ブリュッセルから逃げてきたのだった。
そのニコルに惹かれるダニエル。何とか口実を設け、既成関係(・・・という表現しか思い浮かびません・苦笑)を作ろうとするダニエルに、ニコルはジェロームの面影を見る。母を誘惑した男と同じ顔を。
「あたしの一生をだいなしにしないで」 (p239)
ニコルは、ダニエルの誘惑をはねのけた。
前巻で「男女の快楽」を知ってしまったダニエルは、これに懲りずにこれからも「男女の快楽」を追求していくんだろう。期せずして、父・ジェロームとそっくりに。その因果応報、しっぺ返しは、次巻の第三部で語られるだろう。
一方のジャックにも、初体験の機会が訪れる。チボー家の家番のフリューリンクばあさんの姪・リスベットがその相手。(ジャックは知る由もないが、彼女はアントワーヌとも関係を持っていた)
一度はジャックの前から姿を消したリスベット。しかしフリューリンクばあさんが死亡した時、再び姿を現し、二人は結ばれる。最初で最後の行為。
こうしてジャックは、身体上では少年期を脱した。しかし精神上では、未だに「少年」を残している。年齢や経験を重ねても、精神的に「大人」になれない人間は多々いるが、ジャックもそういう人間の一人。
少年園で自我を殺されるような生活を送り、少年園を出た後に、諸々の現実にぶち当たり、困難を直視し、対峙しなければならないことに、「少年」であるジャックは、どう対応していくのか。
「孤独というものは、人を変えてしまうからな」 (中略) 「あらゆることに無神経になっちまうんだ。何かしら、こうぼんやりした恐怖とでもいったようなものがいつも身について離れないんだ。何か動作をする。だが、何も考えてなんかいないんだ。長いうちには、自分がいったい誰なのか、自分がはたして生きているのか、それさえ忘れてしまうんだ。とどのつまりは死んでしまう……それでなければ、気ちがいになるんだな」 (p214〜215)
白水uブックス。訳者は山内義雄。読んだのは2006年1月9日から12日。
これも風邪をひいて、しんどい時期に読んでました。
「少年園」。この聞き慣れない言葉。「感化院」もしくは「少年院」の方が、日本人にはしっくりくると思う。
1900年代のフランスには、とっくにあったのですね。
日本と違うのは、宗教色が強いことではないでしょうか。日本では、「感化院」は宗教法人が管轄していない限り、ミサやお経もあげないでしょう。(日本の「少年院」は個人施設ではありませんしね)
前巻の 『チボー家の人々1 灰色のノート』 の最後で、父親のオスカールによって少年園へ収容されることになったジャック。
しかもそれがオスカール・チボーの名を冠した施設だから、そういう意味では「父親の支配」からは未だに逃れられないことになる。
そのジャックの暮らしている少年園へ、兄のアントワーヌが訪ねるところから、第2巻が始まる。
弟の変貌に驚くアントワーヌ。兄と過ごすうちに、徐々に本心や生活ぶりを吐露していくジャック。
「このままではいけない」と感じたアントワーヌは、父の反対を押し切ってジャックをパリに連れ戻す。
《ヴェカールさんは〈チボー家の自負心〉とも言った。たとえばおやじのごとき……たしかにそれだ。だが、このおれは、そうだ、もちろん自負心の持ち主だ。それを持っているのがどうして悪い? 自負心というやつ、それはおれにとってのてこなんだ。あらゆる力を動かすてこだ。おれはそれを使う。おれにはそれを使う権利がある。何よりさきに自分の力を利用すること、それが肝心ではないだろうか? しからば、このおれの力とはいったいなんだ?》 (p148)
この頃のアントワーヌも、前巻のジャックやダニエルとはまた違った意味で、「若いな・・・」「青いな・・・」と感じてしまう。前者二人は十代の若さと青さ、後者は二十代の若さと青さですが・・・このニュアンスの違い、分かりますかねえ?
《それはよくわかっている。まず、おれは理解が早い。そして物おぼえがいい。これは何物かだ。つぎには勉強の能力。〈チボーのやつは牛のようにはたらく!〉大いにけっこう。言いたいやつには言わせておくさ! みんな、できればそうしたいと思ってるんだ。つぎにはなんだ? 精力、そうだ、あの〈す――ば――ら――し――い――精力〉》 (中略) 《それは一種のポテンシャルというようなものだ……それは十二分に充電され、働きかけるばかりになっていて、このおれに、どんなことでもさせてくれるところの蓄電池だ。だが、たといそれらすべての力があったにしても、ねえ神父さん、それを使うてこがなかったらどういうことになりましょう?》 (p148〜149)
前途有望、優秀、研究熱心な小児科医アントワーヌ・チボーの誕生。その輝かしい未来に酔っている観があるアントワーヌ。
でも、その気持ちは分からないでもないんですよ・・・。我が身を振り返ってみますとね・・・(苦笑)
「兄弟! それは単に、血をおなじくしているというだけのことではない。生まれたときから、まったく株をおなじくし、樹液をおなじくし、いきおいをおなじくしているということなんだ! ふたりは単に、アントワーヌ、ジャックというふたりの個人ではない。ぼくたちは、チボー家に生まれたふたりの人だ。われらはじつにチボー家なのだ」 (p164)
九歳も年の差のあるアントワーヌとジャック。このひとときが、二人が初めて「兄」「弟」と認識し合った証ではなかろうか。「チボー家の人間」であると認知した瞬間ではなかろうか。
「チボー家の人間」・・・それはつまるところ、彼らの父・オスカールの血を、いやでも受け継いでいるということに、二人はまだ自覚していないように見受けられる。
パリに戻ったジャックは、早速ダニエルと会おうとするが、オスカールに禁じられ、アントワーヌにも止められる。諍う二人。世間一般で言う「兄弟喧嘩」とは程遠く、保護者と被保護者という関係にも見える。
アントワーヌの付き添いで、ようやくジャックはフォンタナン家でダニエルと会うことになる。妹のジェンニー、そしてノエミ・プティ・デュトルイユ(ジェローム・ドゥ・フォンタナンの愛人の一人)の娘・ニコルとも知り合う。
ニコルは、ブリュッセルから逃げてきたのだった。
そのニコルに惹かれるダニエル。何とか口実を設け、既成関係(・・・という表現しか思い浮かびません・苦笑)を作ろうとするダニエルに、ニコルはジェロームの面影を見る。母を誘惑した男と同じ顔を。
「あたしの一生をだいなしにしないで」 (p239)
ニコルは、ダニエルの誘惑をはねのけた。
前巻で「男女の快楽」を知ってしまったダニエルは、これに懲りずにこれからも「男女の快楽」を追求していくんだろう。期せずして、父・ジェロームとそっくりに。その因果応報、しっぺ返しは、次巻の第三部で語られるだろう。
一方のジャックにも、初体験の機会が訪れる。チボー家の家番のフリューリンクばあさんの姪・リスベットがその相手。(ジャックは知る由もないが、彼女はアントワーヌとも関係を持っていた)
一度はジャックの前から姿を消したリスベット。しかしフリューリンクばあさんが死亡した時、再び姿を現し、二人は結ばれる。最初で最後の行為。
こうしてジャックは、身体上では少年期を脱した。しかし精神上では、未だに「少年」を残している。年齢や経験を重ねても、精神的に「大人」になれない人間は多々いるが、ジャックもそういう人間の一人。
少年園で自我を殺されるような生活を送り、少年園を出た後に、諸々の現実にぶち当たり、困難を直視し、対峙しなければならないことに、「少年」であるジャックは、どう対応していくのか。
「孤独というものは、人を変えてしまうからな」 (中略) 「あらゆることに無神経になっちまうんだ。何かしら、こうぼんやりした恐怖とでもいったようなものがいつも身について離れないんだ。何か動作をする。だが、何も考えてなんかいないんだ。長いうちには、自分がいったい誰なのか、自分がはたして生きているのか、それさえ忘れてしまうんだ。とどのつまりは死んでしまう……それでなければ、気ちがいになるんだな」 (p214〜215)


