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◆旧ブログを検索してくださった皆さまへ

このブログは、関西どっとコムさんに登録していた旧『チョコちょこ読書雑記』の記事を移行し、その後引き続いて記事を投稿しているものです。
具体的なキーワードで検索し、旧ブログから自動的にこちらへと移ってこられた方は、お手数をおかけしますが、左手にあるサイト内検索で再検索をお願いいたします。

今後とも、末永くお付き合いくださいますよう、よろしくお願いいたしします。

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2008年10月14日 (火)

『ペソア詩集』フェルナンド・ペソア詩篇 より②

足場

人生のなんと多くの年月を
夢みながら過ごしてきたことか
わが過去のなんと多くが
思い描いた未来を
裏切る日びにすぎなかったことか

心静かにいかなる理由もなく
この川の辺にぼくは立つ
空ろな川の流れは
冷たく無表情に描く
虚しく生きたわが日びを

なんと望みの果し得ることのすくないことか
願う甲斐のあるどんな願いがあろう
幼い子の投げるボールは
わが望みより高く飛び
わが願いより遠く転がる

・・・・・・・・・・

去って行った岸辺を慕う
緩やかな水のかすかな音
漠とした希望の
なんと物憂い憶い出よ
夢みることと生きることのなんという夢よ

・・・・・・・・・・

ぼくはすでに未来の亡骸
ぼくをぼくに繋ぎとめるのはただ夢のみ―
ぼくがなるべきであったものの
すでに遅く暗い夢―
人影のないぼくの庭の塀

・・・・・・・・・・


『ペソア詩集』(澤田 直 訳編/思潮社)

2008年10月12日 (日)

『南西部の光』より

私は南西部をすでに《読んでいた》。
ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。
というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである。
私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。
有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識するのが作家である、と。



『偶景』(ロラン・バルト/みすず書房)収録

2008年10月11日 (土)

ファン・エイクの画集を見ながら…

新しいカテゴリーを作っていながら、まだ書けていませんね(苦笑)
少し、忙しい日々が続いています…
また、落ち着き次第、書いていきますね☆


今日は、お休みです。
…でも、3連休ではありません(泣)

1日だけの貴重なお休み…

そんな休日に、図書館から中央公論社の『ファン・エイク全作品』を借りてきて読んでいます。
そうですね…この画集に関しては、「眺める」ではなく、「読む」という言葉の方が相応しいですね。
後半の「ヤン・ファン・エイクの研究」は、とても興味深く読ませていただきました。
書いているのは、この画集の編者でもある前川誠郎さん。
岩波書店から出ている木下杢太郎の『百花譜百選』の選者の方ですね。
もともとは高額だったこの百花譜も、より身近な岩波文庫になったので、覚えておられる方も多いのではないでしょうか。(それでも、1,575円もするのですが(苦笑))

…さて、ヤン・ファン・エイクの絵です。
よく知られているものから始めて、その緻密な筆致や鮮やかな色彩、光の輝きを楽しんでいます。

でも、実は、まるで色を載せていない一枚に心惹かれてしまったのです。

それが『聖バルバラ』。

未完成なのか、下描きなのか…

でも、それにしては、もうこれだけで充分完成されているように感じるのです。

幽閉されることになる巨大な塔を背に、小高い丘で座し、聖書を捲る聖女の姿。
その衣装の裾は豊かに広がり、もの思う瞳は俯きながら字を追っています。

…何て美しいのでしょう!

1437年…570年も前の絵とは思えません。
色が無いことに、まるで違和感も覚えないのです。
いいえ…他の絵のような色彩では、彼女の美しさは減じてしまうようにすら思います。
左手に、まるでペンのように持つのは、小麦や枝ではなく、殉教による勝利を示す棕櫚の葉です…
そのことが更に、彼女の美しさを昇華します。

背景の塔の細かさや、中景を描いたことによる遠近法の表現なども、確かに素晴らしいものでしょう。

でも今は、ただ、彼女の憂いの姿だけを見ていたいですね。



本当に美しいものは、心をリフレッシュさせてくれます。
何だか、意欲が湧いてきますね!

…ということで、明日も、お仕事を頑張りましょう(笑)

2008年10月 9日 (木)

ノーベル文学賞が決まりましたね☆

2008年のノーベル文学賞が、フランスのル・クレジオに決まりましたね☆

邦訳では、『黄金の魚』(北冬舎)が皆さんの記憶に一番残っているタイトルでしょうか。
…と思っていたら、Amazonのサイトでは、現在、新品のトップが『はじまりの時 上』(原書房)になっていますね。
あれ…?
『黄金の魚』はカスタマーレビューもありません(苦笑)


この「チョコちょこ読書雑記」でも、
以前、彼の絵本に触れたことがありましたが、彼の作品はこの絵本も含め、邦訳されながら絶版になっているものも数多くあります。

この受賞をきっかけに、重版されれば嬉しいですね!

2008年10月 8日 (水)

プリニウスと図書館☆

今日は寒露ですね☆
上弦を一日だけ過ぎた半月が、とってもキレイです♪


『影の歴史』(ストイキツァ/平凡社)では絵画のはじまりについて、プリニウスの博物誌第35巻の記述が取り上げられていましたが、同じ巻に、図書館について触れられている部分があります。

それが第35巻の二。
肖像画や彫像について記されている章です。

以下は、『プリニウスの博物誌 第Ⅲ巻』(雄山閣出版)からの引用です。


金銀製ではないにしても、とにかく青銅でつくった像を、その不滅の精神がそこでわれわれに語りかける人人の記念として図書館に立てておくというような、これまた新規に発明された習慣を見逃してはならない。


本には不滅の精神が宿り、図書館に行けば、その精神は来館者に(読者に)語りかけてくれる。
その本が図書館にあるということは、その著者の青銅の像を作って記念にするほどの価値と重みがあるものだと、プリニウスは言っているのです。

彼は更に続けます。



わたしの考えでは、とにかくすべての人々がすべての時代に、ある人がどんな種類の人間であったかを知りたがるということ以上によろこばしいことはない。
ローマではこの習慣はアシニウス・ポリオに始まるのだが、ポリオは図書館をつくり、天才たちの述作を公共の財産にした最初の人であった。



(本や、肖像、彫像によって)全ての時代に渡り、ある人がどんな人物だったかを知りたがる…人々が皆そうすることは、とても喜ばしいことではないか。
そう言っているのですが、プリニウスにとって、この「ある人」とは「天才」のことでしょう。
図書館は、そのような「天才」の述作を公共の財産として保存する所なのです。


…およそ2000年前の意見です。

でも、はたして、的を外しているのでしょうか。

予算の減額や人員の削減。
苦情の増加やマナーの低下。

図書館を取り巻く環境は、今はとても厳しいものです。
ましてや、都市部から離れた所では、厳しいの一言で終われない程の状況でしょう。

そんな時代だからこそ…

「公共の財産」としての図書館の役割の原点に、今一度、耳を傾けてもいいのではないでしょうか。



図書館員の方々に、お尋ねします。


あなたが今日、選ばれた本は…「公共の財産」だと、自信を持って言えるものでしたか?

「不滅の精神」が、語りかけてくれるものでしたか?


…現在の状況下で、図書館が蔵書とすべき資料はどんなものだと思いますか?

2008年10月 7日 (火)

未だに《その時》が来ない本ですね…

…えぇ。
ミシュレに触れた際に思い出したんです。
フランス・ルネサンス期が産んだ長篇、『ガルガンチュワ物語』を始めとする5冊の作品を。

ラブレーは、今までにも何度か読もうと試みました。
…でも、出来ませんでした。
どうしても、肌に合わないのです。
ちっとも、《その時》は訪れてくれません。
多くの古典を手にして、読んできましたが、ここまでよく知られたもので拒絶反応の強い作品はありません。
「笑い」が苦手な訳でもないのですが…
それでも、やっぱり、ラブレーはチョコちょこから随分と遠い所で、それこそ巨人のように座り込んで動こうとしません。

どんな本なのか…
ご存知ない方の為に、岩波文庫の『ガルガンチュワ物語』の「読者に」を引いてみます。
(本文は、あまりに強烈な部分も多いので、とても引用出来ません(笑))



この書を繙き給う友なる読者よ、
悉皆の偏見をば棄て去り給えかし。
また読み行きて憤怒すること勿れ、
この書は禍事も病毒をも蔵めざれば。
げにまことなるかな、笑うを措きては、
全きものをここに学ぶこと僅かならむ。
我が心、他の語草を撰び得ざる所以は、
卿らを窶れ衰えしむる苦患を見ればこそ。
涙よりも笑いごとを描くにしかざらむ、
笑うはこれ人間の本性なればなりけり。

  楽しく生き給え



…で、続く「作者の序詞」ではこう呼びかけています。


世にも名高い酔漢の諸君、また、いとも貴重な梅瘡病みのおのおの方よ


……以下は、どうぞ手に取って読んでみて下さいね。

これから、おはなしのことを書きましょうか☆

お庭では、キンモクセイがとっても甘い香りを漂わせてくれています♪
いよいよ、秋ですね!

さて。
新しいカテゴリーを作ってみました。
ここで言う「おはなし」とは、手に本を持たないで、覚えた作品を子どもたちへと語る「素語り」のことです。
絵本を手にしながら読む「読み聞かせ」や、本を紹介する「ブックトーク」とは違います。
図書館などで行なわれる、所謂「おはなし会」で語られるものがこれに当たります。
イメージは…そうですね。
田舎のお家の、炉辺でお婆さんが火を起こしながら子どもたちに語る昔話…でしょうか。

でも、実は、このイメージが「おはなし」の自由度を狭めています。

そんなことも含めて、少しずつ、書いていけたら…そう思っています。

2008年10月 6日 (月)

『アウグスト・エッシェンブルク』より

人生とは何か?
ある日、彼の父親が時計の裏側を開け、内部の歯車を見せてくれた。
あれが彼の人生だったのだろうか?
変てこな紙人形に閉じ込められた鳥。
突然動き出した、絵の中のボート。
くすんだ緑色のテントの中の、汗だくの魔術師。
それらはみな、郵便切手のすかしのように密やかで精緻な、運命の秘密の予兆だったのだろうか?
それともあれはどれも単なる偶然だったのか―
ひとつの人生を織りなす無数の偶然の中から記憶がたまたま選びとった偶然だったのだろうか?
何とかして答えを見つけようと、彼は懸命に考えた。
すべては過ちだったのだろうか?


『イン・ザ・ペニー・アーケード』(スティーヴン・ミルハウザー/白水Uブックス)収録

2008年10月 5日 (日)

雨ですね…サミアドは大丈夫でしょうか(笑)

えぇ…ふと、そんなことを思ったんです☆

しとしとと降り続く雨の中、車を走らせていると…砂にもぐってぶつぶつと文句を言っているサミアドの姿が心に浮かんできたんです。


何しろ、サミアドは水が大嫌い。

左上唇の、十二本目のひげの先が濡れただけで、もう大変!


しめっぽい日には、いまだにそこがいたむような気がするよ。


…え? サミアドって何って?
サミアドの姿は…



その奇妙なものの目は、かたつむりのように、長い角の先についていて、望遠鏡のように、のびたりちぢんだりできるのでした。
耳は、こうもりの耳のようで、ずんぐりした胴には、まるでクモのおなかのように、厚い、やわらかい毛がはえていました。
すねや腕にも毛がはえていて、手と足は、さるの手足に似ていました。



……えっと。
ネズビットの文章で想像出来ない方は、ぜひ、H・R・ミラーによる挿絵を見てみてください。
この挿絵のサミアドしか、チョコちょこには思い浮かべることが出来ません。
こんなへんてこな生物が…そう、砂の妖精なのです。
ただの妖精ではありません。
願いごとを叶えてくれる、とってもステキな…そう、ステキなはずです。
なのに、いつも、子どもたちは失敗してしまうんです。
子どもたちっていうのは、勿論、砂利掘り場でサミアドを掘り出したシリルにアンシアにロバートにジェインの4人のことです。

…あっ、忘れていました。

この本の原題は“Five Children and It”でしたね。5人目の「ぼうや」をすっかり忘れていました。


この原題の本は、邦訳では『砂の妖精』として、福音館書店から出ています。
翻訳は、お気に入りの石井桃子さんのもの。

アンシアたちの作品は、他に2作あって、全部で3部作になっています。
一つは猪熊葉子さんの翻訳で出ている『火の鳥と魔法のじゅうたん 』(岩波少年文庫)。
もう一つは、八木田宜子さんの翻訳で出ている『魔よけ物語 上・下』(講談社青い鳥文庫)。
…見事に出版社も訳者もバラバラなのですが(苦笑)、興味を持たれた方は読んでみてくださいね☆

2008年10月 4日 (土)

『ペソア詩集』アルヴァロ・デ・カンポス詩篇 より

 現実

そうだ 二十年まえ わたしはしばしばここを通った……
なにも変わっていない―すくなくともわたしの見たかぎりでは―
この町のこの場所は……

二十年になる!
あの頃のわたし! いまとは違っていた……
二十年まえは。家々はなにも知らず……

・・・・・・・・・・

将来のことを楽しく考えながらこの坂道をのぼった日もあった。
存在しないものを明るい光で照らすのを神は許すからだ。
いま この坂道をくだっても 過去のことを楽しく思うことはない。

せいぜい 考えることもしないで……
わたしの感じでは 二人がこの道ですれ違ったようだ、あの時でなく今でもなく
だがまさにこの場所で。すれ違うのを時間に邪魔されることもなくだ。
わたしたちはたがいに相手を見た、いかなる関心もなく。
そして昔のわたしは向日葵のごとき未来を想像しながら道をのぼった。
そして現在のわたしは道をくだった、なにも想像しないで。

おそらくこれはほんとうに起こったことだ……
おそらくまぎれもなく起こったことだ……
そうだ おそらく現実に起こったことだ……

そうなんだ おそらく……


『ペソア詩集』(澤田 直 訳編/思潮社)