学習時間という捧げもの / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
通信教育にしてもインターネット学習にしても、
学習スタイルそのものを支配されるような教材は
要注意だ。
家庭学習で一つのネックになるのは、子どもが帰宅
してから家庭学習を始めるまでのつなぎというか、
「さあ、勉強を始めよう」という立ち上がりの部分。
そこで、5分なり10分なり、何らかの取り組みか
やりとりをすることで、家庭学習へのエンジンが
かかるようなものがあるとしたら、それはどんな
ものだろうか。
論語の一節を読む? 瞑想? ストレッチ? 発声練習?
子どもの24時間のうち、何十分、あるいは1時間
以上の時間を特定の教材のために費やすとか、学習の
習慣を身につけるまでだけでなく、1ヵ月、2ヵ月と
継続してその教材に取り組むこと自体を習慣にして
しまうような、そういう前提にたっているものは、
本末転倒の匂いを感じる。
「このシステム(教材)一つですべてをサポート」
みたいなのはかえって危険。そこから次にどう
つなげるかということがなければ、せっかくの
システムや教材がアダにもなり得る。
学習スタイルそのものを支配されるような教材は
要注意だ。
家庭学習で一つのネックになるのは、子どもが帰宅
してから家庭学習を始めるまでのつなぎというか、
「さあ、勉強を始めよう」という立ち上がりの部分。
そこで、5分なり10分なり、何らかの取り組みか
やりとりをすることで、家庭学習へのエンジンが
かかるようなものがあるとしたら、それはどんな
ものだろうか。
論語の一節を読む? 瞑想? ストレッチ? 発声練習?
子どもの24時間のうち、何十分、あるいは1時間
以上の時間を特定の教材のために費やすとか、学習の
習慣を身につけるまでだけでなく、1ヵ月、2ヵ月と
継続してその教材に取り組むこと自体を習慣にして
しまうような、そういう前提にたっているものは、
本末転倒の匂いを感じる。
「このシステム(教材)一つですべてをサポート」
みたいなのはかえって危険。そこから次にどう
つなげるかということがなければ、せっかくの
システムや教材がアダにもなり得る。
2008年2月14日(木) at 23:13
イヌのコブタ / Angerika
大文字駅伝の思い出(2) / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
さて、3区の走者を見送った後、急いで地下鉄に乗り、
丸太町へ。
ゴール地点へ行くルートは、東山から少し上がる方が
歩く距離が少ないのかもしれない。けれども、丸太町を
過ぎた第9中継所から冷泉通りへの10区のコースを、
できればたどりたかった。
けっきょくは列車待ちの時間などもあり、烏丸から
東山は馬鹿にならない距離で、人混みの丸太町通りを
避けて夷川通りを抜け、川端二条に出た。
信号待ちに阻まれながらようやく東山通りを越え、
そのまま二条橋まで行くと、北側の冷泉橋を選手が
走っているのが見える。
急いで京都会館西側を通り抜け、冷泉橋を渡ってくる
我が小学校の選手に声援を送ることができた。コブタは、
走りながら岡崎公園の手前まで選手を見届けたらしい。
冷泉橋で声をかけ走って岡崎公園まで見送るルートは、
昨年、私がコブタを応援していたときと同じだった。
すべてのチームがゴールすると、選手たちが次々と
閉会式場の京都会館に集結してくる。
1区、2区など遠方を走った選手は、バスに乗って
やってくる。
大会の朝は、このバスに乗って選手たちはそれぞれの
中継点に向かったのだ。
====================
昨年は、京都会館から第9中継所の鴨川河畔に向かう
バスを、私も見送った。
京都会館から出てきてバスに乗り込むコブタ。いよいよ
バスが出ようとするとき、なぜか、火葬炉に入っていく
父を見送ったときと同じ気持ちがした。
そう感じたことが不謹慎なのではなく、むしろ火葬と
いうものが、魂の出発だったのかもしれない。
丸太町へ。
ゴール地点へ行くルートは、東山から少し上がる方が
歩く距離が少ないのかもしれない。けれども、丸太町を
過ぎた第9中継所から冷泉通りへの10区のコースを、
できればたどりたかった。
けっきょくは列車待ちの時間などもあり、烏丸から
東山は馬鹿にならない距離で、人混みの丸太町通りを
避けて夷川通りを抜け、川端二条に出た。
信号待ちに阻まれながらようやく東山通りを越え、
そのまま二条橋まで行くと、北側の冷泉橋を選手が
走っているのが見える。
急いで京都会館西側を通り抜け、冷泉橋を渡ってくる
我が小学校の選手に声援を送ることができた。コブタは、
走りながら岡崎公園の手前まで選手を見届けたらしい。
冷泉橋で声をかけ走って岡崎公園まで見送るルートは、
昨年、私がコブタを応援していたときと同じだった。
すべてのチームがゴールすると、選手たちが次々と
閉会式場の京都会館に集結してくる。
1区、2区など遠方を走った選手は、バスに乗って
やってくる。
大会の朝は、このバスに乗って選手たちはそれぞれの
中継点に向かったのだ。
====================
昨年は、京都会館から第9中継所の鴨川河畔に向かう
バスを、私も見送った。
京都会館から出てきてバスに乗り込むコブタ。いよいよ
バスが出ようとするとき、なぜか、火葬炉に入っていく
父を見送ったときと同じ気持ちがした。
そう感じたことが不謹慎なのではなく、むしろ火葬と
いうものが、魂の出発だったのかもしれない。
2008年2月11日(月) at 00:11
大文字駅伝の思い出(1) / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
コブタと一緒に大文字駅伝の応援に行った。
あれから1年。なにもかもが懐かしい。
先ず、地下鉄に乗って北山通りまで行き、3区の応援。
====================
コブタと私の大文字駅伝は、2年前の3区の応援から
始まった。
当時、コブタはランニング部にすら入っていなかった
が、私が本部役員の応援要員として北山に出向いた。
本大会への出場自体その年が初めてだったから、
「PTAとしての応援体制を整える」という仕事が
本部の年間活動計画に飛び入りした形だった。
せっかく応援に行ったのだからと、その日の夜、
駅伝のテレビ放送を見ていた。ローカル番組なので、
沿道の知ってる顔がちらちらと映ったりもする。
横で一緒に見ていたコブタは、沿道の知った顔が
映ってることよりも、学年が一つ上の先輩たちが、
このような大会に参加していたことに大いなる
憧れを抱いたらしい。
「来年、私も出たいな」
これは、6年生が学年で10名だけ選ばれるものだ。
しかも、各支部予選があり、どの学校でも出られる
わけじゃない。ランニング部に入っていないどころか、
普段はジョギングすらしたことのないコブタにとって、
それは実現するはずのない夢のつぶやきだと、私は
思っていた。
それが、4月になってランニング部に入り、
めきめきと実力をつけ、選手に選ばれ、予選も
ダントツの一位で通過して、アンカーの十区を
任されたのが一年前のこと。
52校中7位入賞という快挙を遂げ、コブタの大文字
駅伝は華々しく終わったはずだった。
====================
こうしてOBとして応援に行くと、いろいろな思い出を
順にたどることができる。コブタが出た年の駅伝は過去の
ことだけれども、「来年、私も出たいな」と言ったとき
から何かが始まって、それがいまでもずっと続いている
ような気がする。
あれから1年。なにもかもが懐かしい。
先ず、地下鉄に乗って北山通りまで行き、3区の応援。
====================
コブタと私の大文字駅伝は、2年前の3区の応援から
始まった。
当時、コブタはランニング部にすら入っていなかった
が、私が本部役員の応援要員として北山に出向いた。
本大会への出場自体その年が初めてだったから、
「PTAとしての応援体制を整える」という仕事が
本部の年間活動計画に飛び入りした形だった。
せっかく応援に行ったのだからと、その日の夜、
駅伝のテレビ放送を見ていた。ローカル番組なので、
沿道の知ってる顔がちらちらと映ったりもする。
横で一緒に見ていたコブタは、沿道の知った顔が
映ってることよりも、学年が一つ上の先輩たちが、
このような大会に参加していたことに大いなる
憧れを抱いたらしい。
「来年、私も出たいな」
これは、6年生が学年で10名だけ選ばれるものだ。
しかも、各支部予選があり、どの学校でも出られる
わけじゃない。ランニング部に入っていないどころか、
普段はジョギングすらしたことのないコブタにとって、
それは実現するはずのない夢のつぶやきだと、私は
思っていた。
それが、4月になってランニング部に入り、
めきめきと実力をつけ、選手に選ばれ、予選も
ダントツの一位で通過して、アンカーの十区を
任されたのが一年前のこと。
52校中7位入賞という快挙を遂げ、コブタの大文字
駅伝は華々しく終わったはずだった。
====================
こうしてOBとして応援に行くと、いろいろな思い出を
順にたどることができる。コブタが出た年の駅伝は過去の
ことだけれども、「来年、私も出たいな」と言ったとき
から何かが始まって、それがいまでもずっと続いている
ような気がする。
2008年2月10日(日) at 22:10
勉強ってなに? / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
勉強を、「必要だから」と思ってやるのと
「やりたいから」と思ってやるのとでは
大きな違いがある。
「必要だから」と思う場合、「なぜ必要か」
という理由付けができているものとできて
いないものがある。
「なぜ必要か」に心当たりがなければ空しい
だろう。また必要な理由がわかっていたと
しても、気が乗らないときは焦るし、
「自分はなぜがんばれないのか」と辛くなる。
勉強を、やりたいからやっている場合、その
理由はどうでもよい。やりたいがままに、
とことんやるだけ。
それは、勉強だからやっているのではなくて、
好きでやっていることがたまたま「勉強」と
分類されているだけのこと。
「やりたいから」と思ってやるのとでは
大きな違いがある。
「必要だから」と思う場合、「なぜ必要か」
という理由付けができているものとできて
いないものがある。
「なぜ必要か」に心当たりがなければ空しい
だろう。また必要な理由がわかっていたと
しても、気が乗らないときは焦るし、
「自分はなぜがんばれないのか」と辛くなる。
勉強を、やりたいからやっている場合、その
理由はどうでもよい。やりたいがままに、
とことんやるだけ。
それは、勉強だからやっているのではなくて、
好きでやっていることがたまたま「勉強」と
分類されているだけのこと。
2008年2月7日(木) at 21:16
押し花のひとりごと / Angerika
信号・記号の無力な部分〜水谷修先生の講演を聴いて / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
水谷先生の講演は、教育のヒントを求めて会場に足を運
ぶのが普通だろうか。
私は、仕事柄、講演のテープ起こしをする機会が多い。
そうやってテープで聴くのと、実際に同じ空気の漂う空
間で話を聴くのとでは、何がどう違うのだったか。
昨夜は、もちろん教育に関してもいろいろと思うところ
のある講演だったが、講演を直に聴くことの意味を、再
確認できた点でも有意義だった。
デジタル信号に置き換えられないもの。
文字記号に置き換えられないもの。
そういうものが、確かにある。
災害や事件が起こると、私たちは、テレビや新聞でその
ありさまを目にすることができる。そうして、「大変だ
なあ」「かわいそうだなあ」と感じたりする。
災害や事件が目の前で起こると、私たちは、その場の空
気で呼吸をしながら、うろたえたり、叫んだり、通報し
たりする。
デジタル変換を経た文字や画像のデータを介して、私た
ちが伝え、受け取っているものは何なのか。いま一度確
認してみる必要があるだろう。
そこには一見、人の気持ちが込められているように見え
るが、気持ちは正確に伝えられ、受け取られているのか
どうか。
文章でも画像でも、人間はそれらを自分の都合の良いよ
うに解釈する。そのため、先入観の影響を受けやすい。
文字と画像しか判断材料がない中で、ほかの部分は、自
分に都合がよいように補足しているのだ。
パラパラマンガが連続した動きに見えたり、写真やテレ
ビで見るリアルな画像が、実は細かいドットの集まりに
すぎないとか。人間の脳は、そうした補正によって、
あなたの世界をつくっている。
ネット上に書き込まれた言葉やアップロードされた有限
枚数の画像から、全体の把握はできっこない。
情報伝達機器はあまりにも便利で、すべてのことを伝え
てくれるように思われがちだ。大人も子どももそんな落
とし穴にはまっている。
デジタル機器が悪いのでも、人間が悪いのでもない。
ただ、落とし穴にはまっていて、そのことに気づかない
というところに、現代社会の不幸がある。
ぶのが普通だろうか。
私は、仕事柄、講演のテープ起こしをする機会が多い。
そうやってテープで聴くのと、実際に同じ空気の漂う空
間で話を聴くのとでは、何がどう違うのだったか。
昨夜は、もちろん教育に関してもいろいろと思うところ
のある講演だったが、講演を直に聴くことの意味を、再
確認できた点でも有意義だった。
デジタル信号に置き換えられないもの。
文字記号に置き換えられないもの。
そういうものが、確かにある。
災害や事件が起こると、私たちは、テレビや新聞でその
ありさまを目にすることができる。そうして、「大変だ
なあ」「かわいそうだなあ」と感じたりする。
災害や事件が目の前で起こると、私たちは、その場の空
気で呼吸をしながら、うろたえたり、叫んだり、通報し
たりする。
デジタル変換を経た文字や画像のデータを介して、私た
ちが伝え、受け取っているものは何なのか。いま一度確
認してみる必要があるだろう。
そこには一見、人の気持ちが込められているように見え
るが、気持ちは正確に伝えられ、受け取られているのか
どうか。
文章でも画像でも、人間はそれらを自分の都合の良いよ
うに解釈する。そのため、先入観の影響を受けやすい。
文字と画像しか判断材料がない中で、ほかの部分は、自
分に都合がよいように補足しているのだ。
パラパラマンガが連続した動きに見えたり、写真やテレ
ビで見るリアルな画像が、実は細かいドットの集まりに
すぎないとか。人間の脳は、そうした補正によって、
あなたの世界をつくっている。
ネット上に書き込まれた言葉やアップロードされた有限
枚数の画像から、全体の把握はできっこない。
情報伝達機器はあまりにも便利で、すべてのことを伝え
てくれるように思われがちだ。大人も子どももそんな落
とし穴にはまっている。
デジタル機器が悪いのでも、人間が悪いのでもない。
ただ、落とし穴にはまっていて、そのことに気づかない
というところに、現代社会の不幸がある。
2006年10月13日(金) at 12:37
水谷修先生の講演 / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
「夜回り先生」で知られる水谷修先生は、京都へは
これまでに何度も来られているが、今夜、初めて
講演を聴きに行った。
「さらば、哀しみの青春〜今、私たちにできること、
しなければならないこと」
8月の末に、日本PTA全国研究大会みやざき大会で
予定されていた講演を、急遽キャンセルされた先生だ。
その研究大会の講演は、メイン会場以外の3会場に
モニター中継される予定だった。が、そのことを前日に
なって初めて知ったという水谷先生は、「講演は生の
声で伝えることに意味がある」として、キャンセル
されたという。
全国からは8000人の聴衆が集まっていたので、当然
大変な騒ぎになった。
そこまでされることの意味を確かめたい思いもあって、
この度、京都会館まで足を運んだ。
生の声でなければ伝えられないものは何か……。
そして、確かに生の声だったからこそのものを、私も
得て帰ることになった。それを、生どころかこのような
ブログの文章で伝えることは、到底できようはずもない。
言葉は恐ろしいほどの言霊をもっているけれども、
メールや電話では、愛は伝わらない。情報を伝える
のにメールは便利だが、同じ空間を共有して、顔を
合わせなければ伝えられないものがある。
ケータイよりも、赤い糸の糸電話。
そんなお話を、確かにモニター越しに聴くのでは
説得力をもたなかっただろう。
けれども、それだけではなかった。
先生の無念の叫びは、直に聴いてきたからこそ、
キャッチできたのだと思う。
夜の世界で、ボロボロになって短い生涯を終えて
いった少年・少女たち。
水谷先生は、彼等が存在していたことの証人。
その人が、いま目の前にいて話をしている。
肉体を失った子どもたちの思いは、そんな空間の
中で蘇り、人の心に触れる。電気的な信号には
置き換えることのできない魂。
以下は、講演を聴いて心に残った内容のメモ。
・子どもたちを夜の社会から引き戻しても、昼の
社会がしっかりしていなくては、意味がない。
・いまは家庭を軸とした子育てが推奨されているが、
それでは、問題のある家庭で育てられる子ども
たちが、いつまで経っても救われることがない。
一人一人の大人の心に、子どもたちを地域で
育てていこうという余裕が必要だ。
・目の前の子どもの、過去や現在を変えてやる
ことはできない。けれども、未来をこれから
つくっていくことはできる。
・現代社会は攻撃的だ。そして、現代っ子たちは
人との直接のコミュニケーションが不足して
きたため、弱い。何かあると、すぐに逃避して
しまう。
これまでに何度も来られているが、今夜、初めて
講演を聴きに行った。
「さらば、哀しみの青春〜今、私たちにできること、
しなければならないこと」
8月の末に、日本PTA全国研究大会みやざき大会で
予定されていた講演を、急遽キャンセルされた先生だ。
その研究大会の講演は、メイン会場以外の3会場に
モニター中継される予定だった。が、そのことを前日に
なって初めて知ったという水谷先生は、「講演は生の
声で伝えることに意味がある」として、キャンセル
されたという。
全国からは8000人の聴衆が集まっていたので、当然
大変な騒ぎになった。
そこまでされることの意味を確かめたい思いもあって、
この度、京都会館まで足を運んだ。
生の声でなければ伝えられないものは何か……。
そして、確かに生の声だったからこそのものを、私も
得て帰ることになった。それを、生どころかこのような
ブログの文章で伝えることは、到底できようはずもない。
言葉は恐ろしいほどの言霊をもっているけれども、
メールや電話では、愛は伝わらない。情報を伝える
のにメールは便利だが、同じ空間を共有して、顔を
合わせなければ伝えられないものがある。
ケータイよりも、赤い糸の糸電話。
そんなお話を、確かにモニター越しに聴くのでは
説得力をもたなかっただろう。
けれども、それだけではなかった。
先生の無念の叫びは、直に聴いてきたからこそ、
キャッチできたのだと思う。
夜の世界で、ボロボロになって短い生涯を終えて
いった少年・少女たち。
水谷先生は、彼等が存在していたことの証人。
その人が、いま目の前にいて話をしている。
肉体を失った子どもたちの思いは、そんな空間の
中で蘇り、人の心に触れる。電気的な信号には
置き換えることのできない魂。
以下は、講演を聴いて心に残った内容のメモ。
・子どもたちを夜の社会から引き戻しても、昼の
社会がしっかりしていなくては、意味がない。
・いまは家庭を軸とした子育てが推奨されているが、
それでは、問題のある家庭で育てられる子ども
たちが、いつまで経っても救われることがない。
一人一人の大人の心に、子どもたちを地域で
育てていこうという余裕が必要だ。
・目の前の子どもの、過去や現在を変えてやる
ことはできない。けれども、未来をこれから
つくっていくことはできる。
・現代社会は攻撃的だ。そして、現代っ子たちは
人との直接のコミュニケーションが不足して
きたため、弱い。何かあると、すぐに逃避して
しまう。
2006年10月12日(木) at 22:55
教育バウチャー制度〜選べることの利点と盲点 / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
自分で選べる時代。何かのお祝いや香典返しがカタログ
ギフトだったりというのも、ずいぶん普通になってきた。
選べることは、確かにいいことだ。
公教育もしかり。きょうもまた、こんなニュースが。
学校選択へ利用券制検討「公教育を再生」、安倍氏(京都新聞)
選べるようにすることで「すべての子どもに高い水準の
学力と規範を身につける機会を保障」できるかどうか。
……といった問題はさておき、「選ぶ」ってどういうこ
となのか、考えてみたい。
「選ぶ」という観点で考えると、たとえば地方には選択
肢が少なく、都市部には自分で選ぶシチュエーションが
たくさんある(もちろん例外あり)。
じゃあ、選べるからぜったい良いかというと、そうでも
ない。
自分で選ぶのだから、選ぶ自分に責任がある。選ぶため
にはいろいろと情報を集めなくてはならない。妥協点を
探すのに時間がかかる。
とかく、まずは自分で納得のいく選択を遂げるために、
ある程度のエネルギーを注ぐことになる。
そうして、ようやく選択を完了したとき、それが本当に
自分の主体的な要求を実現しているのかどうか。
ここに盲点がある。
自分で選んだように見えて、実は目の前に並べられた
物の中から選んでいるわけだ。選んだだけでは、そこに
自分自身の創造性はない。
私が京都の北部に住んでいたときは、住み慣れなかった
せいもあり、さまざまなジレンマやストレスがあった。
けれども、少しずつ自分で「いま住んでいる町を、こん
なふうにしていきたい」「ここにないのだから、自分で
作ろう」と考えるようになった。地方で生きていくため
には、前向き志向しかないことに気づいた。もちろん、
簡単に新しい意見や思いが通る土地ではないが、ある種
のハングリー精神みたいなものを、その地で芽生えさせ
育てることができたように思う。
京都市に来てみると、確かにいろいろなものが最初から
あった。東京ほどでないにしても、私が思いつくような
ことは、既にどこかで誰かが実践している。
さて、話を教育に戻すと……。
公立の学校は、基本的にはほとんど住民票に添って入学
が割り当てられる。だから、3年前まで子どもたちがお
世話になっていた小学校でも、いまの小学校でも、変え
たいところは変えよう、作りたいものは作ろうと、いろ
いろやってきた。
一人の小さな実践だったが、私が変えたんだ、作ったん
だと実感できるものが、確かに残っている。
一方で、選択して入学した長女の中学校は、事情が違う。
できたばかりということもあるが、「ひとまず期待」。
そんなレベルだ。
こまかいところで「今度、担任の先生に相談してみよう」
「それとなくお願いしておこう」みたいなことはあるだ
ろうが、根本的なところでは、敷かれたレールの上を
進んでいるといえる。
入学後も期待がある程度満たされ、学校を信頼できるの
であれば、それで問題はないだろう。
「こんなはずじゃなかった」
こう言わずにすむように、保護者には、的確な情報の収
集や慎重な調査が求められるが……。
教育バウチャー制度。それが上手に利用できるほどに、
いまの時点では保護者は成長しきれているのだろうか。
実際に導入されるかどうかはいまの段階では未定だが、
教育が「選ぶ時代」に突入しているのは確か。けれども、
その前に、保護者がもっともっと成長し、情報を整理し、
考える必要があるし、そんな機会が必要だ。
そんな機会? そのあたりに、PTAの新たな存在意義が
見いだせるかもしれない。
ギフトだったりというのも、ずいぶん普通になってきた。
選べることは、確かにいいことだ。
公教育もしかり。きょうもまた、こんなニュースが。
学校選択へ利用券制検討「公教育を再生」、安倍氏(京都新聞)
選べるようにすることで「すべての子どもに高い水準の
学力と規範を身につける機会を保障」できるかどうか。
……といった問題はさておき、「選ぶ」ってどういうこ
となのか、考えてみたい。
「選ぶ」という観点で考えると、たとえば地方には選択
肢が少なく、都市部には自分で選ぶシチュエーションが
たくさんある(もちろん例外あり)。
じゃあ、選べるからぜったい良いかというと、そうでも
ない。
自分で選ぶのだから、選ぶ自分に責任がある。選ぶため
にはいろいろと情報を集めなくてはならない。妥協点を
探すのに時間がかかる。
とかく、まずは自分で納得のいく選択を遂げるために、
ある程度のエネルギーを注ぐことになる。
そうして、ようやく選択を完了したとき、それが本当に
自分の主体的な要求を実現しているのかどうか。
ここに盲点がある。
自分で選んだように見えて、実は目の前に並べられた
物の中から選んでいるわけだ。選んだだけでは、そこに
自分自身の創造性はない。
私が京都の北部に住んでいたときは、住み慣れなかった
せいもあり、さまざまなジレンマやストレスがあった。
けれども、少しずつ自分で「いま住んでいる町を、こん
なふうにしていきたい」「ここにないのだから、自分で
作ろう」と考えるようになった。地方で生きていくため
には、前向き志向しかないことに気づいた。もちろん、
簡単に新しい意見や思いが通る土地ではないが、ある種
のハングリー精神みたいなものを、その地で芽生えさせ
育てることができたように思う。
京都市に来てみると、確かにいろいろなものが最初から
あった。東京ほどでないにしても、私が思いつくような
ことは、既にどこかで誰かが実践している。
さて、話を教育に戻すと……。
公立の学校は、基本的にはほとんど住民票に添って入学
が割り当てられる。だから、3年前まで子どもたちがお
世話になっていた小学校でも、いまの小学校でも、変え
たいところは変えよう、作りたいものは作ろうと、いろ
いろやってきた。
一人の小さな実践だったが、私が変えたんだ、作ったん
だと実感できるものが、確かに残っている。
一方で、選択して入学した長女の中学校は、事情が違う。
できたばかりということもあるが、「ひとまず期待」。
そんなレベルだ。
こまかいところで「今度、担任の先生に相談してみよう」
「それとなくお願いしておこう」みたいなことはあるだ
ろうが、根本的なところでは、敷かれたレールの上を
進んでいるといえる。
入学後も期待がある程度満たされ、学校を信頼できるの
であれば、それで問題はないだろう。
「こんなはずじゃなかった」
こう言わずにすむように、保護者には、的確な情報の収
集や慎重な調査が求められるが……。
教育バウチャー制度。それが上手に利用できるほどに、
いまの時点では保護者は成長しきれているのだろうか。
実際に導入されるかどうかはいまの段階では未定だが、
教育が「選ぶ時代」に突入しているのは確か。けれども、
その前に、保護者がもっともっと成長し、情報を整理し、
考える必要があるし、そんな機会が必要だ。
そんな機会? そのあたりに、PTAの新たな存在意義が
見いだせるかもしれない。
2006年9月9日(土) at 21:52
ティラポン / Angerika
出産・育児 > 勉強ごっこ
久しぶりに、家族で回転寿司の
「あきんど」で夕食。その後、
義父へのバースデープレゼントを
買いにダイエーへ。
テナントの本屋にポプラ社の
ティラノサウルスシリーズがあり、
コブタがほしそうにしていた。
パペットまである。
ティラポンだって。
小学校では、あちらこちらで本の読み語りをなさってい
るO先生に、ときどき来ていただくことがある。たまた
ま学区内にお住まいなのだが、本当に味のある読み語り
をしてくださる優しい先生だ。
「O先生がいろいろ読んでくださるから、この頃絵本も
大好きになってきた」と、いまさらながらにコブタが言う。
そうして、ティラノサウルスシリーズの絵本やティラ
ポンを欲しくてたまらない様子で、困った顔をしていた。
そこで、ちょうど月曜日に図書室の当番ということも
あったので、次の3冊とティラポンを購入。
『おれはティラノサウルスだ』
『きみはほんとうにステキだね』
『あなたをずっとずっとあいしてる』
コブタに買ってやる口実と読み語りの口実が見事にマッチ。
帰宅してから読んでみて、「いい本やな」と、おさる
もいたく感心していた。絵がコミカルな分、内容の深
さがよけいに心に沁みる。
そして、ティラポンはさっそく我が家のぬいぐるみ
ワールドの仲間入り。
注意書きに「パペット以外(なべつかみなど)には
使用しないで下さい」と書かれているのがもっともで
愉快だ。










