まち遊び達人への道渋滞中

ササヲのblog

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忍耐力 / ササヲ

> 都市オモ
都市施設が都市に対して忍耐力があるか。

新しく作られた都市施設(スーパーとか、美術館とか、ファッションビルとか何でも)。最初は居心地悪いかもしれへんし、周りに対して自分が浮いてるように感じるかもしれへんけど、そこをグッとこらえてガマンして、耐える。そして数十年の月日を経る。すると、都市は都市施設に対して寛容になり、その存在を認めるようになる。

だって、今もてはやされてる長屋・路地だって、もともとは都心への急激な人口増加に乗っかった賃貸業のひとつで当時は醜悪な居住環境やって言われてたし、今なげかれてる交差点から銀行が消えていく現象だって、昔は土地の高いところに資本をもった銀行が進出してきて、それまであった小さな店が消えていくって嫌がられてた。


月日を経て定着するまでの忍耐力や体力を、新たに作られる都市施設に備えさせることが出来るか、手段はどうあれ、そこを考えてあげる必要があると思う。
2008年4月21日(月) at 00:18 

盛り場と中心市街地(旧市街地) / ササヲ

> 都市オモ
歴史のある地域に歴史が重ねられていかない


現代都市のパラドクスなのか?


技術社会になって、遠く離れた場所から現地まで短時間で移動できるようになった。
情報化社会になって、遠く離れたところにまで現地の様子が伝えられるようになった。


盛り場は来訪者のための場所になった。


でも、盛り場はで1900年代初期にも栄えていた歴史のある旧市街地であることが多い。

そんな盛り場に、郊外から人々が遊びにきて、利用して帰っていく。盛り場の中にその人が根付くこともなく、その人の中に盛り場が根付くこともない。まぁ大勢は。
そもそも、盛り場の商的施設が根付いてなかったりもする。

そんな中で、実体のない「歴史」という認知的要素がもはや無意味やと思われるかもしれない。


この先、盛り場の歴史は、継続して重ねられていくのかなぁ…。
2008年2月27日(水) at 12:25 

最重要のスパイス / ササヲ

> 都市オモ
モノが実際に使われることで、モノそのものが劇的に変化する。【人の利用】っていうのは【利用されるモノ】の質に絡む要素として最重要のスパイス。

たとえば、商業施設にどんな客層がやってくるか、どんな雰囲気にするか。高級感を出したいならカジュアルなスニーカーじゃなくて革靴やヒールを履いたお客さんを見込んで硬質な靴音のする床材を選んでそれをフロアのBGMにするとか考えられるし。その靴音をどの程度響かせるかもきっと考慮の余地がある。


言い方を変えれば、モノの出来上がりだけをゴールにしてたら実際に利用され出してから失敗することになる。


その辺がデザインをマネジメントすることにつながるんやろな。
2008年2月7日(木) at 12:56 

非日常と断絶 / ササヲ

> 都市オモ
肥後橋のリーガグランドホテルが3月31日でおしまい。
建物取壊し。
で、ポスターとかに往年のホテルの外観が載ってるけど、特にピンとこない。
「ゴージャスー!」「リッチー!」「レトロー!」「渋いー!」「モダンー!」とか、他の建物との違いがハッキリわからなくて、今と同じビル。
実際に見ながら、特に何も感じんかったもんね。



周囲や町並みとの連続性とかよりも、その中身がいかに完成されているかがきっと大事っていうウェイトもあるんやろう。ホテルって、内に秘めた美しさが大事なんやな。

普段の生活からいかに切り離されているか。非日常性。

USJから車が行き来する高速道路見えてもいややし、人気のテレビアイドルから生活感出てたら嫌やし。そういうのとちょっと似てると思う。



地域への広がりとかつながりとかが、必ずしも重要ではない地域の要素だってある。ホテルを「非日常性」っていう視点を持ってみたら、それも納得できた。


リーガグランドホテルのバーは外観よりもカッチョ良かった。


2008年2月5日(火) at 12:43 

低層部⇔高層部の見え方と、まちなみ / ササヲ

> 都市オモ
低層部と高層部で建物の雰囲気が違うデザイン。


かつてそこにあった近代建築を残しながら高層ビルを建てるときにもこの手法が使われたりする。低層に近代建築の殻を纏わせるのもこの類の建物。
沿道を歩いているときの見え方(=低層)と、遠くからの景色としての見え方(=高層)が違うからだったり、1階(=入り口があったり、お店があったりするビルの外向けの顔)と基準階(ビルの中の人間に対する空間)を区別しようとしているから、だったりすると思う。

けど、実際は、歩いているときにも高層の部分が見えて、それがちょっと不自然やったりする。


ふと。
ひとつの建物だけやから不自然に見える可能性があるけど、これがまちなみで統一されたら、それはそれでビシッと揃って見えるのかも。歩いていても低層だけに目がいってしまって、浮き出た低層部分が案外気持ちよさそう。長浜の黒壁通りみたいに。どうなんやろ…。

2008年1月16日(水) at 07:44 

「ワンルームの居住者は地元住民と付き合わず、コミュニティーが崩れる」 / ササヲ

> 都市オモ
と、地域の住民が印象良く思っていないという新聞記事を読んだ。

「ワンルーム人を一括りにするなよ!その人その人次第やろー!」とは思いながらも、確かに、ワンルームは仮の住まい(定住する気がない)であって、一生をそこで過ごすつもりでワンルームに住む人(とりわけ若者)は確かにいないから、ワンルーム居住者に対する偏見はすぐに理解できた。しょーみ、今の自分の住み方も、まだワンルーム居住者と変わらんし。

ワンルーム居住者が嫌がられるのは、睡眠を除く「住む」行為が一日の中でほとんどなくて、その地域は寝場所なだけで「自分の街」と思っていないと思われてるんやろう。



どんな人が住んでいて、どういう風に住んでいるか
また、どんな人がやってきて、どういう風に住むのか



まちのあり様はそんなんを考えていかないといけないと思う。住宅を作る、入居者がいっぱいになる、地域の人口が増える。そういったマスだけでまちを捉えるのは危険やな。

都心にどんどんと建てられている高層マンションについても、高層マンションで都心人口が増えたからといって、「都心部の空洞化が解決した」とか、「まちが健全になった」とか言えるとは限らない。低層の木造住宅が並ぶ町並みに突如高層マンションが建つといういびつさは、きっと住民層のいびつさにつながる。



仕事として付き合っている地域や、遊びにいく対象として付き合っている地域の方が住んでいる地域よりもつながりが深いのかもしれない。子どものときはその全部が住んでいる地域で行われていたのが、大人になって働きだして、個人の各活動に対してそれを担う地域が割り当てれらるようになった。【生活の全部ができる地域】(或いは、ひとつの地域だけで生活が完結している人】っていうのがなかなか成立していない現実。だから、職住一致、職住近接が重要視されるのかな。
2007年12月8日(土) at 23:00 

都市と非都市との相互作用 / ササヲ

> 都市オモ
器を作ってる大谷さんのトコにお邪魔して、家作りのお手伝いをしてきた。
吹田から名神に乗って1時間半の田舎に、ほんの半日だけ。

「こういうところでのびのびと育った子供はすごく感受性豊かで、魅力的になるやろなぁ」と思いながら、でも、「年の友達が近くにいてるんかなぁ」とか、「都市の感覚を持てるようにも育ってほしいなぁ」、とか、田舎で暮らすことと、都市で暮らすことについて考えた。両方にあこがれるし、両方に不足もある。


大谷さんの器は、こんな自然に囲まれた場所で生まれている。それが、堀江のような都会のど真ん中のお店に並んでたりする。インテリアショールームのようなお店にだって。

うちら、都市で暮らしている人々は大谷さんの器に何を求めているのか。都市で手に入るもの、求められているもの、評価されているものが都市から生まれていない現実。

2007年11月18日(日) at 13:38 

デジタル都市像 / ササヲ

> 都市オモ
道頓堀を歩いてたら、TSUTAYAの1階の雑誌コーナーに魅かれた。


並んでるのんほっとんど東京発。
で、見る雑誌見る雑誌で見えてくるトーキョーが違う。で、全部魅力的。めっちゃ東京に行ってトーキョーしたい。

東京人の感じていないトーキョーに魅かれてる非東京人。
メディアの力って凄いなぁと思ったし、この東京に対するトーキョー感覚を地元(オーサカ)にも持つことができたら凄い幸せやなぁとも思った。東京だけじゃなくて海外についてもそう。ヨーロッパに対する憧れや期待と同じような感覚をオーサカに持てへんもんかな。それができるって素敵やな。【近い】【内側にいる】ってそんなに観光対象としてビハインドなんかなぁ。

大阪人がオーサカを捉えられるようになったら凄く楽しくなるやろなぁ。
2007年10月27日(土) at 09:21 

藤本由紀夫から都市デザインを学ぶ / ササヲ

> 都市オモ
藤本由紀夫。
アーティスト。
「それがどう役に立つの?」
「何の意味があるの?」
っていう、世間の工学的発想に苦労してはった。
アーティスト。

美術館の展示見て、
心斎橋アップルストアのトークイベントで話聞いた。
勉強になった。


ラジカセを並べてビートルズ全曲を同時に流したら、ノイズとしか聞こえない。どんな名曲やったとしても。そこからひとつずつ曲を消していくことで、いずれ区別がつくようになる。



都市は本来特徴がなく(ノイズ・混沌、無限の要素の集合体)で、そこから何が見えてくる(どんな都市像を捉えるか)かはその人の感性による。どんな情報を切り捨てているのか、どんな情報を拾い上げているのか。その取捨選択を可能にしているのが都市の持つ秩序。

ノイズの中に秩序を成り立たせる(見出す)ことで、都市は意味を持ってくる。ノイズは可能性に溢れてる。ここでいう秩序は、基礎・土台っていう意味で、市民レベルのムーブメントや流行、ダイナミズムは無秩序の中で起こるのではなくて、秩序によってその可能性が広げられるもんやと思う。

ノイズから要素を抜き出すのがまちづくりをするウチらの役目。とすれば、都市に秩序を与えてやることがウチらの役目。現物にばっかり目を向けているんじゃなくて、それによってどんな秩序が生まれるか(何が浮かび上がってくるのか)を意識してまちづくりをしていかないと。

「まちづくり」は、まちの在り様に影響してくるものづくりなんやと思った。
2007年9月26日(水) at 23:21 

変わると変わる / ササヲ

> 都市オモ
本町の三休橋筋にガス燈が整備され初めて、ゆくゆくは南北2kmまで延びるらしい。




ガス燈がつくことで雰囲気が変わる、っていう、設置したことそのものの効果もあると思うけど、ガス燈がそれからのまちなみを左右する重要な役割を果たすようになるってこともありえるんとちゃうかなぁ。

これから新しく建物を作るときには、ガス燈を意識したデザインになるかもしれへんし、もしかしたら「この道沿い木造日本家屋なんて考えられない」っていう人が出てくるかもしれへん(確かに今のままガス燈が設置されたらちょっと合えへんようなところもある)、バーやレストランやカフェがやたら増えるかもしれへん。シェワダ大中証券ビルや日本基督教団浪花教会なんかの近代建築は、ガス燈が似合うのを理由に保存の意識が高まるかもしれへん。

「ガス燈をつけた」ってだけじゃなくて、そのことが今後の空間の在りように大きく影響してくる。街灯ひとつのデザインが空間全体のデザインに影響しうる。
2007年9月7日(金) at 12:45 

観光ガイドよ さらば! / ササヲ

> 都市オモ
とはミーツ9月号の特集のキャッチ。
京阪神が庭のミーツがハワイ特集。
うーん?

地域の内側にいる人間しか拾い上げられへんものを拾い上げるのって面白い。可能な限り(マスメディアたる基準を満たした上で)記者の視点が反映されてて偏ってるのが。ミーツの場合はその「地域」が京阪神で、スタッフの人が京阪神を拠点にしているからこそできあがるのがミーツやと思ってた。

ミーツの視点を持った記者さんが取材してできあがるハワイ特集は従来のハワイ特集と違うってことなんかなぁ。書き方が違う、表現方法が違う以外に違いがあるんかなぁ。


ミーツのいう「観光ガイド」ってなんなんやろ。
「観光」の捉え方、「ガイドの方法」が従来のものと違うことに意義があって、あくまで「観光ガイド」は存在していいと思うし、ミーツは観光ガイド的な性質があっていいと思う。


どんな人が買うんやろう、それをどう見込んでるんやろう。「観光ガイドよ さらば!」のキャッチに魅かれて、「今までの観光ガイドとちょっと違う、通な観光ガイドなんかな?」って思って手にする人もきっと多いと思う。そんなパラドックスを含んだキャッチの狙いは??
2007年8月23日(木) at 01:45 

住む機能のウラで。 / ササヲ

> 都市オモ
都心居住が流行りの昨今。

北浜、淀屋橋、本町…と、御堂筋・堺筋界隈の大阪都心部にマンションが続々と建ってる。


大阪の都心部=オフィス街。
朝、コンビニに行くパジャマ姿の人と、スーツのサラリーマンが交錯するのかな??それとも、やっぱりパジャマ姿でウロウロするのははばかれるのかな??

「住む」っていう機能が街に備わるのは、まちの多様性とか、わがまち意識とかの点ではメリットになる。それはわかる。
でも、ある機能が増えるっていうことは、ある機能が減る(弱まる)ってこと。まちが変わるとき、それまであった何かが消える。

たとえば、人々が「長屋のまちなみって素敵、そんなのが残っているまちに住みたい」って、そのまちに新しく建った高層マンションに移り住んだために、実は長屋のまちなみを壊していくのに加担していることだってある。


今のマンション建設で消えていっている何かは、「消えてもいいもの」なのか。


オフィス街と住む機能。未利用地(低度利用地)の有効利用っていう点でマンションが建てられているのか。オフィス街を侵す形でマンションが建てられているのか。仮にそうやとすると、当然、会社や事務所の数やオフィスビルが減るだけじゃなくて、お店の性格も変わってくるやろうし、まちの雰囲気も変わってくる。

けど、やっぱり何をおいても大阪の都心部はオフィス街と呼べるまちであってほしいなぁ。どんな機能が付随しても。


2007年8月9日(木) at 07:10 

活かす/使う / ササヲ

> 都市オモ
使うことでソノモノの良さに触れることができるかどうか。
それが、活かす。

活かすことができたら、それはかなりイカス。

でんでんタウンの入口、高島屋別館(東館)の1階にカフェが。高島屋本館(南海ビル)と同じ「高島屋」建築のレトロ建築。
電器街の一角にある土地柄、お客さんのタイプ(街に来る目的)が、レトロ建築という価値と合致するかどうかは、なかなか難しいとは思うけど、うまいこと活かしてほしい。


2007年8月2日(木) at 07:17 

都市に棲む / ササヲ

> 都市オモ
夜の10時過ぎに難波の友達を捕まえて、長堀橋からチャリ漕いでOCAT方面へ。

何しかお好み焼きが食べたかったから道中キョロキョロして思いを巡らせながら「素直に美味しい風月とかぼてじゅうとかでええなぁ♪」って向かってたら難波中1とかなんば楽座辺りゴチャゴチャしてて何かありそうって思いついた。


ラブホ街にあったお立ち寄り飲食店(「お持ち帰り可」)っぽい店で700円のモダン焼き食べて、なかおかコーヒー飲んで1時に解散。

「この時間まで何も気にせず遊べるってさすが都心居住!」
なんて思ってチャリンコ漕ぎながら、
「けど待てよ、別に瓢箪山に遅くまで開いてる店があって付き合ってくれる友達が居たらそれでええんちゃうん?」
って考えも確かに真理。

お出かけの対象になる場所が家の近所にあって便利なだけか。モノ、コト、ヒトが集まる都市やけど、それによって他にどんな特徴があるんやろう。普段生活しながらどんな特徴を感じるんやろう。
2007年7月20日(金) at 12:55 

都市公園 / ササヲ

> 都市オモ
万博公園の在り様を見て、ニューヨークのセントラルパークの光景を思い出した。



こんな公園の風景を市街地中心部で展開しているニューヨークやロンドンって凄く羨ましい。


万博公園、遠い。


万博会場跡が公園になったわけやから、新開発後に公園整備されたっていうことでそりゃ都心から離れた郊外にあるのは当然やけど、日常に万博公園みたいな公園が欲しい。


なんでやろ、大阪城公園がこれを補完できないんは。

そんな中で靭公園はかなり健闘してると思う。
けど、公園の際(キワ)の心配がない公園が欲しい。


いやーもはやムリなんやけどね。
2007年7月16日(月) at 03:27 

都会の一室 / ササヲ

> 都市オモ
引っ越し予定の部屋。古いビルの部屋やから窓が全部曇りガラス。窓を開けたら心斎橋そごうとか日航ホテルが見えるんやけど、そんな立地にあるような感覚に全くならへん。

都会にいてるのを意識するのは建物の中に入るまでで、入ってしまうと囲まれてる空間が全てなのに気づいた。
自分がこれまで【都会】を感じるのが視覚(景色や風景)によるところが大きくて、それが得られないからイメージが湧かないんやろなぁ。

それを思うと、眺望の良さをウリにした最近の都心型高層マンションは、自分が都会にいるのを実感するのに一役買ってるのかも。
内と外をつなげるひとつの方法として内から見える視覚的な外の眺めがある。



(都心じゃなくて)都会って言う言葉は、まちのハード面での充実やマクロなまちの動きを捉えた言葉なんやろやなぁ、少なくとも自分にとっては。

2007年5月26日(土) at 11:18 

シングルズ卒業 / ササヲ

> 都市オモ
いや、バーの名前ですよ、バーの。



3月いっぱいでシングルズでマスターするのをとりあえず終了。

この1年なんか、来てくれる人ほっとんど友達やったし、自分もそれを予想してたし。だから"common bar"っていう考えからは逸脱してた。


友達がお店にお金を入れてる。自分はカウンターの中に入ってるけど、儲けてるわけじゃない。

それだけ考えたら、非効率的な空間。
店かどっかで飲み会したらええやん!?
っていう。

けど、店に集まるからこそできる空間は確かにあった。
ウチに集まったり、居酒屋を予約したりして飲んでも実現しない空間が。
【場所】って不思議な概念や。

ある概念がみんなの中に共有されると、そこが何も無かった場所やったとしても意味が生まれる。



遊びにきてくれてたみなさまがた、今までありがとう!!
2007年5月13日(日) at 23:13 

観光の敷居 / ササヲ

> 都市オモ
横浜駅に隣接する形である区画があって、それを貫通するように「たぬき小路」っていう路地がある。

新横浜ラーメン博物館(とか、大阪で言えば道頓堀極楽商店街)みたいな昔の風景が現行として残っている路地。
こういう、わかりやすいレトロってとっつきやすいし、横浜駅そばにあるぐらいやから一見でも何とか入っても良さそうな気分になる。


観光の敷居ってこれぐらいがええ感じなんかも。
難易度低くてベタベタってわけでもないし、かといってあまりにトガってて打率の低いコアな店でもない。何しろ、まず独特の雰囲気を持つたぬき小路にある店っていう感覚が楽しめる。そういう意味で観光客に対するストライクゾーンは広い。

ミナミの法善寺横丁も大切にしんとあかんなぁ、って改めて思った。


ところで、この辺で出張って客を捕まえるカラオケ店員は、決まって
「カラオケぇいかがっすかあああ カラオケ
って言う。
決め事か!?
2007年4月30日(月) at 00:24 

建物の自由 / ササヲ

> 都市オモ
それは言うたら留まる自由。
建物として存在しているときだけを善しとせんとあかんかっていうときっとそうじゃない。

建物が建っていて使われてるときだけが建物の一生じゃない。

使われなくなって放置されて廃墟になっているときも意味はあるし、更地になっているときも意味はあるし、建設中や解体中の工事だって意味はある。

「無」じゃなくて、そういうものとして社会的に存在して、人々の目に晒されてるから。

たとえば、
建物が建てられている時は、
「○○跡」とか言われるのと
「○○ができる」とか言われるのとで、
今までの建物とこれからできる建物の2つが人々の意識に存在している時期。

近くを通りながら、「次は何ができるんやろう??」とかいう風に思う機会を多く持つことができたら、できてからの愛着やら納得やらにもつながるのかも。

って考えると、工事中だってアピールの機会やな。


北浜の三越大阪店跡にできるのは高さ200m超の高層マンション。工事中の今、まさに多くの人の関心をひいている。

2007年3月9日(金) at 17:07 

まちづくりの拠り所 / ササヲ

> 都市オモ
まちづくりを行おうとするとき。

そのときは、極私的であれ、その対象とするまちを選ぶ理由があるはずだし、ある立場を持ってまちづくりを行うのが本来。「まちづくりをして、自分にとってどんな嬉しいことがあるのか」を持って、まちづくりの土俵にあがるべきやと思う。
まちづくりを生業にする人にとっても、自分なりに思い入れのあるまちに関わることができたら最高やろうね。事業ありきでその地域のまちづくりに関わるんじゃなしに。


だから、都道府県知事とかに立候補するとき、候補者がその都道府県にどの程度の縁があるかって結構気になる。自分の行いたいことののキャンバスとして、その都道府県を求められてもなぁ〜。
こないだの衆議院選挙であったような、「住民票移して刺客として送り込む」なんて違和感!自分の好きな街を自分が望む姿にするために立候補してほしい。「なぜ大阪で立候補したんですか?」「自分の望んでる大阪に変えたいから」それぐらい言うてくれんと。


まちづくりは「べき論」だけじゃ足りない。
2007年2月27日(火) at 02:52 

ゲル的なデザイン / ササヲ

> 都市オモ
あー何とも例え悪い。

氷みたいな固体は融通が効かないし、水みたいな液体は秩序がない。だから、形は示さないといけないけど、可変性も持たないといけない。そういう意味でゲル的デザイン。

…例え悪い。


「まちづくり」っていう言葉が浸透してくるのを追うように、「まちそだて」っていう言葉も良く耳にするようになった。

「まちづくりしてるっていっても、つくってるわけじゃない!」
っていう意識から出てきた言葉。

「育てる」ってどういうことか。
ひとつは「常に手を加えている」状態に保つことやと思う。

そう言う意味で、手を加えたくなる=【デザインしたくなる】デザインっていうのがけっこう重要なんやろう。だって、仮にデザインする側で空間が完成されたら、利用者からすれば、後はその空間を消費するだけになっちゃうもんね。


で、【デザインしたくなる】デザイン。

それは、空間の利用者が「こう使いたいなぁ。」「こうならいいのに」がイメージしやすいデザイン。いわば叩き台であり雛形としての空間。だから、その空間には最低限として用途や仕組みといった使い方の筋道が設定されてないとね。「休憩スペース」とか「交流空間」とかいう限りなく最大公約数のデザインより、「自分はこう使いたいねん」っていうデザイナーの意思が見えるデザインの方がいい。

「オマエはそう思うかもしれんけど、オレはこう使いたい」っていう批判的なものの見方ができるから。相手の立場を理解してこそ自分の立場を認識できるっていう節は良くある話やと思う。



ゲル的なデザイン。

(ほら、ちょっとはわかった?)
2007年2月24日(土) at 15:05 

ズキューン、やられたぁ〜 / ササヲ

> 都市オモ
これ、ええわ。



ANAのキャンペーン

国内旅行は日本という国への海外旅行。
一度空を飛んで降りたつんだから。
日本だって外国のつもりで見たら、また一味違うじゃん。

っていうね。
粋や。

こういう視点好き。




っていうのも、日ごろから「観光」っていうことばに敏感。


観光:「余暇時間にあって、日常生活圏を離れて行うさまざまな活動」
(『ツーリズムの文化研究』)


ここで【余暇時間】とか【日常生活圏】ってのは何をさすかバチッと決まってるわけじゃない。
とすると、「長期休暇に日本を離れて海外旅行をする」のはスッキリ定義に当てはまると言えるけど、一方で、「約束まで数分か余裕があるから待ち合わせ場所に行くのにいつもと違う道を通る」のだって定義にあてはまる。

「何を余暇時間とみて、何を日常生活圏と見るか」っていう規模・時間・距離の捉え方の違いの問題であって、そういう理屈でまち遊びだって立派な観光やと思ってる。


そこへきて、今回のANAのキャンペーンの文句。
最高ぉお!!
2007年2月23日(金) at 02:30 

店の尋ね方 / ササヲ

> 都市オモ
慣れない土地で、何食べようと思ったとき、地元のお店で買い物ついでに、その店の人に聞こうとすることが多い。

「そうやって教えてもらえた」っていうこと自体が、既にその店に箔がついてるし、入場許可をもらったような気分になるし。

ただ、注意せんとあかんのは、
「ちょくちょく行くトコ」
を聞かないとあかんってこと。


うっかり、
「良いトコないですか?美味しい店知りませんか?」
ってきいて失敗することがよくある。



相手がヨソの人ってわかると、地元の人は「何か珍しいもの・有名なもの」を薦めないとって思いがちやけど、そういう店はメディアで十分に調べることができる(つまり、それってもしかしたら、地元の人が「メディア的なものを教えてあげないと」ってヨソの人に思ってるのかも)。



「自分は行かんけど、まぁ行ってみたら?」なお店よりも、薦める人本人が、その良さを好き勝手に話せる店の方がいい。

メディアで発信される情報も一緒で、記事に「自分は行かんけど、まぁ行ってみたら?」が感じられたら、もう魅かれまへん。
2007年2月22日(木) at 00:38 

コンビニも / ササヲ

> 都市オモ
人が働いてる。

コンビニで買い物するときは、
レジに商品持ってって、
お金渡して、お釣りもらいながら、
店の人に「ありがとう」ってきちんと言うのが信条。


最近は、店員さんの目を見て言うことも心がけるようになった。


そしたらコミュニケーションが生まれる時がある。
店員さんから、人を感じる瞬間が。
そうなると、必要なものを買うだけの作業のつもりで店に来るのに凄い嬉しいし、楽しい。


たまに居る、
(えっ?なんでこっち見てるん?)
って驚いている店員さんの表情も、言わばコミュニケーション。
ええじゃないかええっじゃないか。


店って人やなぁ、と思う。


店員さんがうつむいてたりして、
目があう割合が圧倒的に少ないのが実際のところやけど。
2007年2月21日(水) at 10:25 

アートイベントとまちづくり / ササヲ

> 都市オモ
「アートでまちづくり」は近年のトレンド。スポーツ、お笑い、音楽…と色々とある中で、「アート」が取り上げられている。
ナンデヤロ。


そして、この春、大阪でも。



で、すごく気になるくだりが!


「大阪のまち」を象徴する場所や地域の皆さまに協力頂くことにより、さらに多くの人々の参加を促し、アートを通じて大阪のまちの魅力を引き出したいと考えます。

都市再生の主要舞台で展開されている様々な動きとの連携を図りながら、「大阪のまち」を象徴する場所、地域、人とアーティストがコラボレートしながら、「大阪のまちとひと」を浮き彫りにできるような作品を大阪市内のさまざまな展示場所に設置していきます。

カレイドスコープ展を訪れる人は、マップを頼りに「大阪のまち」を散策しながら文化、歴史など「まち」の魅力を体験することになるでしょう。



これまでのまちなかアートイベントは、【まち→アート】の方向がほとんどやった。展示場所としてまちなかを選ぶ、価値のある建築物を利用する、といった都市空間を舞台として提供するものだったり、まちの特性を活かした作品を制作するというものだったり。何て言うか【アート】がゴール。

で、今回のイベントでは、【アート→まち】の展開が示唆されている。



−アートを通じて大阪のまちの魅力を引き出したい



これが示す意味が、もし、「アートを餌にして大阪のまちを歩かせる」っていうだけでなくて、「アートによって大阪のまちを意識する」のを視野に入れているとしたら、ものすごい興味しんしん。
前者だけでも、参加する人の感性や咀嚼力次第で十分価値はあるんやけど(まちの一側面への興味をきっかけにしてまちの多側面に触れる機会を作ることはすごく効果がある)。
結果として期待するだけでなくて、企画側が意図するとしたら、いったいどんなんになんのやろ。



まちなかイベントって、スタンプラリー的スポット巡りだけじゃもったいない。まちなかイベントを主幹・引き金にして、まちなかでイベントと連動したおもしろいことが期間中にいっぱい起こればいいなぁ。ゲリラ的なものも含めて。そういう意味で、イベントに便乗することができるのなら断然アリでしょー。楽しいし。
2007年1月17日(水) at 00:15 

街のイメージと諸刃の剣 / ササヲ

> 都市オモ
店であったり、人であったり、建物であったり、景色であったり、そういった街の要素の印象が街全体のイメージや評価にまで影響する。

好きな景色があるからその街の記憶が素敵なものやったり、仲の良い人が居るからその街に行きたくなったり、ブラブラ他にも良いトコを探してみたくもなる。



ずーっとそういう風に考えてた。
良いように。

けど、その逆のケースだって当然ある。



街のある要素が原因で街全体のイメージや評価が悪くなること。その「街の要素」が街に根付いてるものであればあるほどその症状は深刻。

地元に愛されている店から出入り禁止にされたら、その店どころか街に足を踏み入れることさえダメなことやと思い込んでしまう。喧嘩した友達の住む街に行こうとも思わないし、一緒に連れて行ってもらった店にも行けなくなる。

街に嫌われてるとか思ってしまったらもう最悪。


街と関わる人は誰しもがコンシェルジェ。別にどんなときもお客様(来訪者)にスマイルする必要も愛想振り巻く必要もないし、自然に振舞って結果としてその街を理解して気に入ってもらうのが一番やけど、自分の振る舞いや行いが街に影響を及ぼしてることを忘れて不用意になると危険。

人だけでなくて、その周り・背後にまで評価が及ぶっていう点では「自分は自分、他の人は関係ない」が済まされない「封建制」の感覚に似てる。ある種の文脈主義にも通じると思う。


人を通じて見えてくる街は、良いようにも悪いようにも濃くて深い。



被博愛主義の自分としては、街に敵は作りたくないもんですわ。
2007年1月16日(火) at 00:32 

欠落する実物のリアリティ / ササヲ

> 都市オモ
ありのままに見せれば、それが一番ホンモノらしく見えるとは限らないっていうのは良くある話。

「実物を見る」

「必要な情報を抜き出して自分なりのイメージにする」→

「それが記憶になって残る」

っていう方向があるとして、じゃあ思い出すときはその逆の方向になるけど、

「記憶の中のイメージ」

「実物」

を照らし合わせると違和感になることが良くある。
(まぁまぁやった映画のエンドロールが印象的で、その映画の本編までもがものすごく美化されてしまうみたいな感じ。「♪恋人ど〜しではなくなったら〜 君ぃーの良いとこーばかり思ーい出ぁすのかなぁ〜」ってミスチルも歌ってる)


例えば、空から都市の様子を撮った航空写真は、
「ホンモノの地図や!すごい!」って思ったけど、いざ見ると、味気ないし、地図としてすごくわかりにくかった。

人は都市を
【目印・道・地域・境界・点】を都合よく組み合わせてイメージしてるから、頭の中の地図の中では「勝手に」御堂筋が他より明るかったり、「勝手に」難波とか梅田がぐぃーんと盛り上がってたりする。千日前とか道頓堀はドギツい原色やし、堀江とか南船場はシャレた配色になってたりする。

実際に空からみたら灰色とかの無彩色ばっかりが見えるのに。
2007年1月5日(金) at 00:21 

再開発散文 / ササヲ

> 都市オモ
大阪には、再開発計画のある地区が沢山ある。

これまでも、色々な再開発が行われてきたけど、再開発は大きく2つに分けることができると思う。

ひとつは、フェスティバルゲート、大阪ドーム、なんばパークスみたいな「跡地」の有効利用のために行われた再開発。人を新たに呼び込むための「ゼロから人の流れを生み出す」再開発。
もうひとつは、上本町ハイハイタウンや大阪駅前ビルみたいな戦後の混乱期に形成された街の再開発で、「住環境改善」「土地の高度利用」のための再開発。現行の街が生まれ変わるために「街の性格を変える」再開発。

前者は新たに需要を開拓するっていう意味で、クリエイティブな側面がすごく高い。「何を作れば価値があるか」が大事。バブルから今まではそういうのが良く目についた。大阪北ヤードの再開発も前者になる。貨物ヤード跡地の有効利用っていう意味で。つまり、このタイプの再開発は、一旦街としての役目を終えて、その体だけが残ってて、そこに新たな街の生命を吹き込む再開発。むしろ感覚は新開発に近い。

それに対して、後者は老いた体を治療する再開発。って言っても、なにも健康で若いバリバリの体に手をつけるってことはなくて、それなりに治療対象になるには条件がある。お初天神とか、阿倍野とか堺東とか、実際に利用者はいるけど、土地柄の割に利用されてなくて(儲けてなくて)もったいないとか、防火対策が施されてない木造家屋が多いとかの理由があるときにこのタイプの再開発が行われる。で、前者の再開発が一旦キタヤードで終わりになるやろうって言われてて、これからの再開発は(戦後の混乱期に作られたとは限らないけど)後者の治療型のタイプのものが増えてくる。

で、後者の再開発で気になるのは、老いながらも命がある(少ないけど利用者は居る)のに、体を元気にするために新たな命が体を乗っ取る(新しい命で今の命を塗りつぶしてしまおうとする)っていう場合が多いこと。しかも、それは予算さえあれば確実に現実的になる(店や家の立ち退きは進む)。

力技で再開発計画が進んでいく原因としては、土地所有者と利用者が一致してないのと、土地所有者が複数居るのが考えられる。街は色んな人が居て成り立つ。街が好きでその街に暮らしたいっていうのはそこでの人とのコミュニケーションがある前提で言えること。だから1人の思いで再開発は妨げられない。街が歯抜けになるのを見ながら闘い続けるのはものすごく難しい。そんな感じで開発会社は自らの「利益」のために再開発を進めようとするし、対象地域の利用者は自らの「利益」のためにそれを止めようとする。

っていうのが再開発を取り巻く今の状況やと思う。



じゃあ、じゃあじゃあ!!!

そこで、直接の利害関係にない自分みたいな人は、何を根拠にして再開発の是非を考えたらいいんやろう。再開発は社会的には何のために行われる(行われない)べきなんやろう。

地区内の利用者のため?(にみんなの利益や未来の利益は棄てられる?)
地区を含む地域全体のため?(に地区内の利用者の利益は棄てられる?)
未来のため?(に現在の利益は棄てられる?)

大義のために小さなモノに目をつむるのもおかしいけど、感情論に傾いて、大義を見失うのもおかしいし。
再開発の意義って何なんやろう。
何を大義として据えたらええんやろう。
2007年1月3日(水) at 01:52 

キタよりミナミが好きなわけ。 / ササヲ

> 都市オモ
昔のCMで、観月ありさと一緒に車に乗ったブラピが
「ミナミィ〜、ミナミィ〜」
ってカタコトの日本語でぼやいてたときに初めて認識した

「ミナミ」

ミナミは平面的に広がっていて、ひとつひとつの店が町なみになってるのに対して、キタは百貨店やショッピングビル・モールのまちっていうイメージ。

けどキタにも広がりはある。
電鉄ターミナル周辺、西梅田、阪急東通、お初天神、駅前ビル、北新地、茶屋町、云々…というふうに。

ただ、ミナミと違ってキタはエリアごとの住み分けが明確なんかなぁ。ミナミは同じノリでウロウロできるけど、キタは何かできへん。東通り⇔北新地はあかんし、西梅田⇔お初天神も違う。

そういう風にエリアをまたいで使う環境にある人がキタには少ないからエリアの性格がスパッと切り替わってしまってるのかも。エリアをまたいで使う環境にある人って誰かってなると、住んでる人とか棲んでる人(住んでるような感覚でやってくる人)とかになるんやろなぁ。

それは、もともと湿地帯やったのを鉄道会社が商業開発したのが梅田の発端やからしゃーない。それに、キタは大阪の玄関口やし、ハレの場やから、お出かけしてくる人が大半で、住んでる人が相対的に少なくなるのもしゃーないな。

そう考えたら、市場規模がキタの方が大きいのは、ミナミが今のままあることを考えたらええのかな?「キタに追いつけ追い越せ」にならなくても。
2006年12月31日(日) at 14:53 

「ニュー」タウンのカフェ / ササヲ

> 都市オモ
茨木市のニュータウンの彩都の地図を見て気になったのは、「まちのなかにできるお店」ってあるんかなぁ〜ってこと。

中規模の商業施設はあるやろう。けど、まちなかのお店って考えると、ニュータウン初期の人口ではマーケットにならないから、無いんかなぁ?けどそれやったらちょっとまちとしての魅力に欠けるよなぁ。ニュータウンの開発会社が個人を対象に補助金設定して誘致したりするんかなぁ。

と思って、地図に載ってたカフェに行ってみた。
おうちの一角を店舗スペースにしてるこぢんまりしたトコやった。

おうちの奥さんが昼間の時間を利用してやってるカフェやった。

こういう個人住宅に併設したお店っていうスタイルか!
なるほど!!


2006年12月12日(火) at 09:42 

熱い想い / ササヲ

> 都市オモ


洋菓子店「五感」の社長、浅田さんのトークイベントに行ってきた。
幸運にも偶然に北浜の新井ビルに出会い、そこに五感の本館を敷いた浅田さん。堺筋・北浜に対する熱い想いを聞くことができた。

都市計画の専門家は、それぞれが持ちうるこういう想いに従って誰しもが活動できるようなフォローや、ベース・枠組づくりをせんと、まちに関わるひとりひとりが持っている想いをへし折ることになってしまうなぁ。
2006年12月7日(木) at 10:29 

歴史にストーリーを。 / ササヲ

> 都市オモ
奈良国立博物館で10月下旬から催される正倉院展の広告を、色々な駅構内で良く見かける。
歩きながらサーッって流してたら、そのウチのひとつの広告の中のフレーズに焦点があって、体が反応した。



「こんなカワイイ盃で、奈良時代の人はお酒をくみかわしながら、何を語り合ったのでしょうね。」

今まで美術館に行っても、土器や茶器、貴族の日用品のような類は、「ふぅん」って見るだけで興味が無かった。今まで残ってるってことは貴重な状況なのかもしれんけど、それを見たからといって何も感じないなぁと思っていた。

それが、その日用品と当時の人々の使用とを結びつけて考えてみたら、結構楽しいことがわかった。「モノ」があって、それを使う「ヒト」がいる。そういった日用品を取り巻く周辺にまで思いを馳せることができたら、味わい方はぐっと広がるなぁ。

美術館の土器とか茶器コーナーに行くのが楽しみになったー。
2006年10月16日(月) at 07:12 

建物にぬくもりを / ササヲ

> 都市オモ
船場建築祭っていうイベントに行ってきた。

建物をモノじゃなくてヒトとして捉えてみるっていうのがイベントのキーワードとして印象に残った。


伏見ビルでの花村周寛先生のインスタレーション。
建物の配管や電線は血管であり神経。


そう考えると、コンクリや鉄骨で強いはずの建物が、その生命を外部からの供給に頼っているよう思えて、配管剥き出しの建物なんて急所をさらけ出しているみたいに思えて、建物が脆い存在に見えてくる。建物を愛するオーナーさんの気持ちが少しわかった気がした。ユーミンじゃないけど守ってあげたい。


シンポジウムでも良い話を聞けた。設計事務所代表の中谷ノボルさんは、建物の話を会社の人とする時に、「えらそう」とか「やさしい」とか「悪いやつ」とか「アイツ」とかヒトのように建物を形容するらしい。

「そそる」と「渋い」しか言えない自分がちょっとイヤやったけど、それは建物を建物として捉えようとしてたからやったんかな、って思った。


五十嵐太郎先生の、役目を終えた建物をしばらくそっと休ませてあげる「廃墟になる自由」っていう話も印象的やった。建物に定年してからの余生をあげるのも大事。ちょっと休んだら再就職先だって見つかるかもしれない。


建物に対してぬくもりを感じられるようになるイベントやった。良かった。
キャプテン翼は遥か昔からその事に気付いてたんかぁ。


シンポジウムのレポはこちらにも。
2006年10月11日(水) at 13:57 

アメリカの歴史と近代建築 / ササヲ

> 都市オモ
子どもの頃に
「アメリカはたかだか200年余りの浅い歴史しかなく、そのために先進することにやっきになっている」って習った。
「そっかぁ〜アメリカって歴史がないんか。」
って思いながらずっと過ごしてた。

のにー!

ニューヨーク行ったら歴史的な建物がいっぱいあるやん!




教会とか、近代建築とか。そりゃ、築100年程度ならアメリカにあっても当然のことなんやけど、「これ、日本のまちかどに『ポンッ』ってあったら超モテモテの文化財やろなぁ〜」って思えるような建物がゴロゴロしてた。

ヨーロッパに古い建物があるのは納得しててんけど、ニューヨークってインテリジェントビルばっかりやと思ってたら、「歴史的な町なみ」があった。

アメリカ人は歴史が浅い事を感じていたからこそ歴史を残すことを強く意識しているのかもしれないし、地主慣習が残っててテナントに土地をいじる権利がないシステムが建物が残る結果になっているのかもしれない(それに対して日本では土地は【不動産】でも【固定資産】でもない)。


大阪では近代建築がスポットを浴びてる。1920年代を中心に立てられた洋風建築が大阪市に残っていて、貴重なまちの資源として注目されている。


単に近代建築を残すことが大事ならアメリカやヨーロッパに任せればいい。じゃあ「日本で近代建築にやんややんや騒ぐのはナンセンス?木造家屋や和風建築にこそ価値がある?」て考えると、そうじゃない。

【貴重なまちの資源】、これは、【誰にとって、何にとって】貴重で、【どんな資源として】注目されてるのか考えることが大事。

そうやって考えると、「ほら、こんな建物凄いでしょ」って日本へやってきた西洋人に近代建築を見せても「はぁ…?」ってなってしまうけど、筋道立てて「日本の大阪にある近代建築」を見せることができれば、納得してもらえるはず。

江戸時代の大阪の文化の中心地として栄えた船場に残っていることに意味があって、それを今のウチらが楽しんで味わえることに意味がある。

近代建築の価値は、それを位置づける文脈の中で捉えていくべきなんやろう。
2006年10月10日(火) at 16:01 

感じて、味わう建物 / ササヲ

> 都市オモ
建築物は、しばしば観光資源として扱われ、近代建築や木造日本家屋、長屋、屋敷などが多く残っている地域はそれらが地域のアイデンティティとして取り上げられ、ガイドブックなんかに載ったりする。

その場合、決まって散歩や建物めぐりのコースにも取り入れられるんやけど、いざ行ってみると、建物を目の前にして何もできない。解説を読んで、眺めて、記念写真を取っておしまい。


「見る」っていう行為は目的じゃなくて手段なんやと思う。
価値のある建物の良さを感じて、味わうための手段。そのひとつとして、「見る」っていう行為がふさわしいならそれは構わないけど、

【価値のある建物が存在するから、行って、見る。】

ってだけだと、結局のところ何をしに来た良くわからない。

背景の一部になってるだとか、まちなみの一部になってるだとか、飲食店になっていて、中の雰囲気を感じられるだとか、デザインされているところを上手く引き出す演出があるだとか、「感じる」ための何かしら仕掛けがないと、単に「建物を見る」だけだと、せっかく価値ある建物なのに、宝の持ち腐れな気がする。いや保存するとは言っても。


「渋い」と「そそる」しかボキャブラリーが無くて、建物を眺めるだけの味わい方には限界があるから、特にそう思うのかな。
2006年9月21日(木) at 13:12 

観光客のキモチ / ササヲ

> 都市オモ
自分自身が横浜に行って改めて感じた。

行くべきところに行ってないと不安。
そこが面白かろうが、しょうもなかろうが、自分で行ったっていう事実が大事。

となると、そういう場所は「行っておく」場所になる。で、行くべきところに行ったら、安心になって、未練が無くなる。そうして、【済】の押された街に再び行くことはほとんどなくなる。

こういう考え方は、「まだ行っていない都道府県は〜」ってっていう会話にも表れる。

「いや、もっとおもろいとこあるんやで!」
と、ホストとしてはたまったもんじゃない。

観光客に消化不良っていうストレスを起こさせず、かつ、「都市の底が見えた、大体わかった」とは思わせない、「満喫したけど足りない」って気にさせるような、そんな対応がホストには求められていると思う。

はじめから、
「もう2回も行く事ないねんし」
ってスタンスで大阪に来る観光客は少ないはずや!

道頓堀行って、USJ行って、海遊館行って、新世界行って、大阪城行った、だけじゃあかん!!

網羅することを再優先する必要はない。

せやから、ヒトにしろモノにしろ、コンシェルジェの役割は重要やね。
「このコンシェルジェの、今回の大阪は面白かった。これが違うコンシェルジェならまた違う大阪が楽しめるやろうし、同じコンシェルジェでもこんなリクエストしたらまた違う大阪が楽しめるやろう。まだまだ全部味わえてないな」
ソンナコンシェルジェニ ワタシハナリタイ
2006年9月14日(木) at 02:07 

事例から考えるフードテーマパークその1〜新横浜ラーメン博物館 / ササヲ

> 都市オモ
近年のフードテーマパークの先駆け(やと思ってる)、ラーメン博物館。

良く造られてる。

入ってウロウロした分にはそう感じられて確かに楽しい。路地の雰囲気も楽しい(ただ、これは他の客とすれ違わなかったことも大きい。路地はプライベート【私的・秘的】だから楽しい)。

フードテーマパークの造りモノ感と精巧さとの境界は、「ここまでホンモノなん?」「じゃあこれは?見せかけ?」っていうお客さんの猜疑心とのオイカケッコで、先にフードテーマパークのハリボテが見えるかお客さんが納得するか、どちらが上回るか。

実際に行ってみて、一瞬、フードテーマパークとのオイカケッコに負けるかと思った。っていうのも、ラーメン屋以外に、蕎麦屋や不動産屋、銭湯、床屋なんかの店があったから(実際は壁だけで営業してない)。

これは実際の街にも適用できると思うけど、街を再現したフードテーマパークが薄っぺらいのは「食べる」以外の機能がなくて、街の「生活」がないから(けどこれがそもそもの「テーマパーク」たる所以)。特に、お金を使わないと時間が過ごせないのは相当居心地が悪い。

例えば、ラーメン屋に限らず、先述の蕎麦屋や不動産屋、銭湯、床屋が生計を立てるために本気でこの空間で営業して金を稼いでいるのを感じたとき、そこに街を感じるんやと思う。

…ところで、そもそも何のための疑似世界?オプション?
…ラーメン屋は中も店員も普通やし…。
2006年9月12日(火) at 08:44 

非日常→日常 / ササヲ

> 都市オモ
8月25日(金)、水辺ナイトat水晶橋・若松の浜

イベントを企画することで大阪の夜の水辺に集まる理由を用意して、色々な人に参加を呼びかけて「大阪の夜の外の姿もなかなかでしょ?」っていうのを感じる機会にしようというのがこのイベント。


知り合いの
「大げさじゃない感じの非日常。日常的な非日常というか」
っていう表現に唸った。


今は日常的じゃない(非日常的)けど、将来的に日常になればいいなぁっていう姿を1日間だけでも実際に感じてみよう、それで、理想とする将来像につながっていけばいいなぁ、っていうのがこのイベントをする狙い。

フラッと橋の上に寄って、川を眺めてビール飲みながらしゃべってるとか、中之島中央公会堂を背に音楽を奏でようって人が現れたり、今はなかなかそういうのがない。

確かに、そういう気を起こさせない何かがあるのかもしれない。例えば、たとえ水晶橋がカッコ良くて、若松の浜がいい溜まり場やったとしても、そこに行くまでの道のりに、繋がり性が薄いとか。

けど、普段の毎日の中で意識する機会がなくて、そういった風景が自分のイメージに入り込んでこなくて、だから今まではそばを通り過ぎているだけっていうのなら、それなら、現在の非日常と未来の日常とをつないでみることも大事なんやと思う。



2006年8月26日(土) at 16:34 

キューピー、数十年間クッキング / ササヲ

> 都市オモ
♪ぱららっぱっぱっぱっぱ ぱららっぱっぱっぱっぱ

今日の献立は、【住宅の素の一面】です☆





まず、住宅を建てます。





それと背中合わせに、建物を建てます。





そして、根気良く数十年寝かせます。





ある日、突然、背中合わせになってた建物を無くします。





そしたら、はい出来上がり〜♪


手づくり感たっぷりの、外面。

なが〜い間、後ろが守られ続けてて安心しきってて、見られるっていうのを意識してなくて、ある日その後ろ盾が急に無くなったらこんなんでした!
みたいな。

「思いがけずの部分を見せなしゃーなくなった!」っていうのが感じがいいなぁ。人の暮らしや息遣いも思われるし。少しずつ手を加えてきたのがわかる。

「素っぴん」とか、「頭隠して尻隠さず」とか、そういうありのままの様子が見れるのって好き。



作ろうと思っても作られない様は、軍艦アパートを思い出した。

これも、デザインしないデザインの一例でしょう。
2006年8月25日(金) at 00:02 

「中身を磨けば外見にも表れるのよ」 / ササヲ

> 都市オモ
「だから見た目ばっかり気にしてちゃだめ、自分自身を磨かなくっちゃ」

てなわけで、機能や役割がその形状に影響を与える建築物たってある。

近代建築に銀行の建物が多いのも、「銀行」のイメージが高く厳かであるべきだというものからやと思うし、

産業遺産・テクノスケープなんて呼ばれる工場・倉庫などの建物も独特のスケール・形をしている。


生活に身近なもので言えば、銭湯。それぞれの銭湯の見た目はバラバラやけど、どの町の銭湯も個性的なものが多くて、住宅の中で「でーん」と構えてて、かっちょいい。

鶴橋温泉とか

空堀の小玉湯とか



美章園温泉に関して言えば、有形登録文化財になってる。
中身の天井を見てたら、古代ローマ?ギリシャ?の風呂の脱衣所みたいやった。神殿みたいな中で男女が風呂に入ってる絵の建物の感じ。



そんな目で見ると建築物も形とか色とか気になる箇所があったら色々と想像が膨らんで楽しい。
2006年8月23日(水) at 12:14 

都市の時を名乗る天使 / ササヲ

> 都市オモ

父方の田舎が奈良県の曽爾村にあるので、年に数回田舎に帰る、ということで、今年の盆も3日間曽爾で過ごして、さっき帰ってきた

ら、

…暑。大阪。


確かにあっちでも昼間は日陰でも少し暑い(でも少し)けど、夕方からは涼しくなってくるし、夜になったら掛け布団いるしで、朝〜昼〜夜を寒暖の差として感じ取ることができる。虫の鳴き声だって、昼間はけたたましいセミの音が、夕方や夜には鈴虫のさえずりに変わる。

今年は、田舎では五感で1日の流れがわかるようになっているのを改めて強く意識した。

それに対して都市ではどうか。

「都市では時計で時間の流れを知ることが殆どで、やっぱり都市での生活は田舎に比べてそういうとこから歪んでくるねん」
っていうのが別に言いたいんじゃなくて、
「都市で1日の流れがわかるようなものって何なんやろう、そこが都市であるなら都市であるなりに、そういう要素を遺して、見つけて、意識していくことが都市生活の豊かさを保つ秘訣なんやろう、都市での生活の中で、そういう敏感さを持っていたい」
というのが言いたい。

1日24時間、一様にその動きが変わらない社会空間なんてない。自分なりの都市時計(腹時計の要領)を手に入れたいと思う。
2006年8月15日(火) at 23:39 

現物を構成するもの / ササヲ

> 都市オモ



昨日に続き、船場キッス。
船場キッスを案内してくれた友達は、当日の作品のサイン(案内表示)を担当していて、そこで案内表示の重要性について教えてくれた。特に、多種多様なものの存在が許される環境では、アート作品ですら「まぁ、そういうのもあるんちゃう?」で済まされてしまう。それは作品の力どうこうの問題じゃなくて、作家側がフォローすべき点。【アート】に対する認識が狭い一般的な捉え方の現状もあるかもしれんけど。

ところで、表示板・サインの必要性でいえば、
表示板・サインと作品が合わさって、全体としてひとつの作品っていう捉え方もできるんじゃないかなぁと思う。

作品脇の解説には、「作品を理解してちゃんと味わいたい」「予備知識無く感じるままに鑑賞したい」っていう好き嫌いがあるやろうけど、「解説、備考」が、作品に対する、ひとつの視点を鑑賞者に与えることで、作品の見え方が変わってくるっていう手法を利用した作品もある。
逆に言えば、「無題」とか「作品」っていうのは、そういう作品に対する視点を与えたくないからそういうようなタイトルにしたんじゃないかなぁとも思う。

これも、情報によって現物が装飾される(現物の見えなかった新たな一面を示す)一例で、一種のマーケティングになるんやろう。
2006年8月2日(水) at 01:16 

溶け込むアート / ササヲ

> 都市オモ
「まちなかにアートが散りばめられてたらどんなに素敵やろなぁー」
とは言え、普段そんな姿勢で街を歩いている人は少数派なんやと思う。

【船場キッス】っていうまちなかアートイベントの案内をしてもらいながら、アートは際立つからアートでいられるっていう話を聞かせてもらった。際立つっていうのは、人々が意識をして気付いて、他と区別して注目すること。

そうやって考えると、良い作品を作るだけじゃなくて、それに加えて、どうやってその作品を人々に伝えるかまで考えんといけない。

特にまちなかやと、美術館や絵画の額のような芸術作品に対する心構えツールが無いから工夫が必要。

例えば、頭上の作品の表示板が無くなると、人々は誰も気付かない!↓
2006年8月1日(火) at 04:18 

傘がない / ササヲ

> 都市オモ
♪行かなくちゃ〜君に会いに 行かなくちゃ〜

どこに行った、私の傘。
アウトドアショップで2000円ほどもした高級折り畳み傘なのに!!
玄関の前で自転車のカゴに突っ込んで干してたら無くなった。


「晴れた日にまさか盗まないやろうし、かつて前例ないし、風で飛んでったんかなぁ。」
なんて思えど、お隣さんに気軽に尋ねることができない。
お隣さんとはそんな間柄じゃない。町内に友達や知り合いはいるけど、家のすぐ近くの近所付き合いというものがない。
「傘がない」って歌えない尋ねられない(まぁよう歌わんけど)。コミュニティの問題って、結構こんな感じでシンプルで根源的なのかもなぁ。
2006年7月27日(木) at 01:29 

薄暮=夜景+薄い周囲環境 / ササヲ

> 都市オモ
夜景はきれい。
夜景がきれいなのは光がキレイやから。

夜景では光が際立つっていうか、光以外の存在が無になってしまっている。夜景はそういう状態やと思う。(友達はこんなこと言うてる)


光に感動するときって、光そのものを褒めて愛でる。


そこへきて薄暮は違う。
薄暮では、まだ明るい。

つまり周りがある。
夜景として際立っているものを、周囲との関係の中で捉えることができる。
そうなると、夜景を取り巻く世界・空間がものすごく壮大に思えてきて、逆に明かりが点いてる建物や街の光がポツンと佇んでるように思えてくる。ビルの室内の明かりであったり、街灯であったり、車のテールランプであったり。しかも、ずっと続かない束の間のはかなさを含んでいるとくりゃあますますシビれるってなもんさ。

そんなんが好きやなぁー。

薄暮に住之江で見た種々の建造物。
夜景で見るのもええけど、やっぱ薄暮でしょー。


2006年7月21日(金) at 10:25 

残すことと遺すこと / ササヲ

> 都市オモ
歴史的・伝統的な建物の保存方法の是非についての議論。

1 全体をそのまま残す
2 中身は現代に対応させて、外側表面の壁だけを残す
3 一部だけが、新しい建物に貼りついてるように残す

昔は、1番が正しくて、「一部分だけ残しても、そんな申し訳程度の保存なんて嘘っぱちや!誤魔化しや!」って思ってたけど、最近はそうでもなくなった。

3番の例って例えばこんなん。京都烏丸四条の旧三井銀行京都支店や大阪心斎橋の又一ビル。



こういうのに対して、まちなみとの調和や景観、リアリティの面から言えば賛否両論はある。でも、「遺す」という機能から見たら決して悪くないとも思う。たとえ少しでも昔の姿をとどめていることが昔をあれこれ思うきっかけになるのなら。

そんなことを考えてると、まちなかで良く見る旧跡、碑なんかにももう少し工夫があってもいいなぁと思う。

石の棒がニョキッと立ってて、「○○の跡」とか書いてるだけやったらやっぱりピンとこない。目にした人がイメージしやすいように形にもこだわってたらいい。動物とか人(ハチ公とか関一市長とか)はちゃんとそういう形やねんし。

ほら。やっぱ何か気が効いてない。
【天五に平五 十兵衛横町】

どうせなら両替商が向かい合ってひしめく通りの様子が再現されてる模型とか。
2006年7月19日(水) at 14:24 

座られること / ササヲ

> 都市オモ
ただ、「憩いのスペース」とかいうて空き地作るだけじゃ誰も利用せえへんのと同じように、椅子置いただけじゃ誰も座らない。「椅子を置いた」ことに意味があるような置き方じゃどないにもならん。
いや、もっとひどいものもある
なんじゃこりゃ↓


キャンパスの通用門脇。
なんか、突っ込むとこ多すぎ!!!

公共的な椅子が座られる、利用されるには、
・座ってもいいんかな?って心配を取り除いてあげる
・座ってる自分が浮いてへんかな?って心配を取り除いてあげる
・「座る」っていう目的だけが剥離してしまわない環境
なんかが効いてくるんちゃうかなぁ〜。人付き合いと同じ感覚で街や都市とも付き合うことができたらええんやけど、それがなかなか難しい。

で、松屋町のにある椅子。練自体が通り抜けできて、うろつけるような施設やから、結構厚かましくなれるし、椅子だけが浮き上がってないし、ロッキングチェアで楽しげやし、良い感じやー。

2006年7月14日(金) at 08:44 

知る権利と知らされてしまう結果と知らない過去 / ササヲ

> 都市オモ
「もうすぐ壊されます」
そんなアナウンス無しに壊される建物が多い。確かにそんな決まりはない。
だから、気がつけば工事が始まってて、
「あれ?ココって前なにあったっけ??」なんて思うことが良くある。近代建築なんかもざらにそんな状態に陥る。
(建物ですらこんな状態。それより小さい路上物ともなれば…)

人間の余命や葬式のように、街にだってそういう機会があっていいなぁ、なんて思う。色々な人に見られて、利用されてきた社会性を持つものやから。


その時を定められ、やがて消えゆくものに思いを遣る。
そこに今まで何があったのか、時の文脈を紡ぐ。


そういう意味で、阪急百貨店は幸せやったかもしれへん。プレスリリースがあって、徐々に工事が始まって。
こんなサイトだってある。
2006年7月11日(火) at 20:53 

河川敷は続くよどこまでも(うそ。マンションまで) / ササヲ

> 都市オモ
この道から北を向くと淀川河川敷。


南を向くとマンション。


ガードレールで道を隔ててはいるけど、河川敷側の緑とマンション側の緑が、なんか続いているような感じ。

「コッチ側は河川敷、で、コッチからはマンションの敷地ね」みたいな感じで、マンションの前が完全に整備された緑空間だったり駐車場だったりしたら、道を隔てて雰囲気がガラッと変わっちゃってつまんないやろなぁと思う。

けど、こういう風な感じで河川敷からマンションまでが連続性を持ってたら、河川敷の中にマンションが建ってて、「マンションから出たらすぐ河川敷公園なんや!」「河川敷公園で遊んでてもすぐに家に着く」って子どもが感じるかもしれない。そういうのってすごく嬉しいと思う。

自分の家が森の中にあるのとか、海の家に暮らすのとかにすごく憧れてたから。そういう風なこと考えて設計したのかなぁ??
2006年6月25日(日) at 09:18 

終着駅 / ササヲ

> 都市オモ
終着駅が好き。

「線路の両側にホームを置いた」って感じで、必然的に電車を停める力を持ってるイメージが無い通過駅。それ比べて、終着駅は、駅が両手を広げて電車を迎え入れてくれてる気がして好き。駅に停車している時間も長いから、他にも停まってる電車があって、続々と集結してくるみたいやし、それぞれの電車が発車まで思い思いの時間を過ごしているみたい。

駅が電車を抱え込んでて、何かバッテリーを充電してるみたいに感じる。

利用する側にしても、電車に乗って、座って、発車までの時間を待つちょっとした時間が「出発」の気分を盛り上げているような気になれる。

逆にその終着駅まで乗って電車を降りるときは「着いた!」って気にさせられる。
2006年6月15日(木) at 03:49