マンガのコマが突然黒抜きのモノローグに変わり、モノローグがダイアローグ的に進行しはじめる。始めは、片方の文字は明朝体でコマいっぱいの言葉で埋め尽くされていて、時折もう片方の極太ゴシックがページ一枚を単語のみで埋め尽くすような、そんな対話が続く。いつしか背景がどんどん薄くなり、明朝体は背景に合わせて自らの色を徐々に濃く強くしていったが、極太ゴシックは白いままどんどん背景に埋もれ、何が書いてあるのか解らないがコマ振りだけが続く。明朝体は語りかけるが、もはや読み取れない。そして気付けば明朝体すらなくなり、後はただコマすらもない白いページが続いている。めくってもめくっても、永遠に白いページが。怖くてめくり続ける。
という夢を見て起きた。HDDに撮ってた『花様年華』を見ながら知らない間に眠って居て、朝まで寝るつもりが。今の自分を的確に表現している夢だなぁとぼんやり思う。真っ黒よりも真っ白の方が怖い。
私は私自身という存在と対話をし、彼女の話を優先的に実行してきたつもりだが、どうやらそれでは満足ではなかったらしい。いつからか部屋のドアをノックしても返事がなくなり、息遣いすら聞こえなくなった。私は空いた時間は始終彼女を探しに外に出て、彼女宛ての郵便にも代わりに返事を書いた。何でも言うことをきくから帰ってきて欲しい、と何度もメールを送り今も待ち続けている。だけど、彼女は私が何でも言うことをきくとは思って居ないし、実際そうじゃないし、彼女はそれを知っているのだろうと思う。だから、私は見捨てられた。彼女は冷酷で残忍な子供のように純粋な存在だった。彼女に私のことは理解できないし、私にも彼女の気分など理解のしようがない。
話す相手が居なくなると、私も私である必要がなくなり、私は私というのが一体何だったのかすら解らなくなり、そもそも彼女とは誰だったのかすら問題ではなくなった。白いページだけが続く。そこにはモノローグすら存在しない。
目を閉じると、いつかどこかで見た景色だけが想起される。あの時、彼女は側にいた。彼女の表情、声のトーン、一語一句を自らに刻みこもうとしていた。海より空の方が蒼かった。これで良いという言葉が聞きたくて、じっと耳をそばだてた。
思えばあの辺りから、彼女は居なくなった気がする。それ以来、私は誰なのかそして何をしたくて何をするべきなのか、解らないままだ。そして、誰かのようなモノが散在し、誰も居なくなった。私は私と呼べるものが欲しいのに、それがどこにあるのかわからず、誰かのマネをし続ける。おそらくペルソナを剥いだら真っ白の顔だろうな、と思う冷たい視線は私のモノマネでしかないので、また明日には違う人になっている。
邪魔臭いからさっさと寝たい。
手足や歯の一本一本までが
僕を根こそぎ引き裂いていく
毎日 毎時間
自らが完全防弾であれば、と願う
蝋を流し込み
象ってほしい
ピンを加熱し
傷つけてみてほしい
君が僕をこんな風にした
だからこれが完全な存在であると
どうか祈っていて欲しい
こいつを買って
試しに撃ってみると良い
そして穴という穴をすべて
鉛で埋めるんだ
これで僕は100万回もの泡を
押し破ることができた
これがなければ
僕は泡にも殺される
僕のすべてに対する代理
僕のすべてに対する守り
すべてを僕からはねかえす
完全無欠の防弾
Radiohead - Bullet Proof..I Wish I Was かなり意訳
今日はほとんど寝てばかりいて、結局しようと思っていた仕事もまったく手つかずの鬱状態。4月に入ってから特にずっとこんな感じでとても良くない。今まで生産性のない鬱はなかったのに本当に残念でならない。
この正体が、生きているということの中心にあるもの、自分が生きている理由、その基準もろとも変えてしまわないと対応が出来ないという結論から起こっている鬱というか鬱になる手前の小康状態なのだということは解っている。今までは、自分が生きている、生きていくことの判断基準や価値基準が揺らぐことはなかった。今まで苦しかったのは、一つの目的がありそれをどうやって前に進めるのか、守るのか、でしかなかったためだ。自分が多くの人が採用している基準で自分が生きていることの価値を感じることが出来ないのは解っていたし、だからこそ自分で生きれる方法を探して見つけて死ぬ準備をしてきたが、それ自体が個体として生きていくことを揺るがす状況になってしまった。そもそも、生きること自体に意味や価値を求めること自体限界があるということは解ってはいたが、どうしてもそこから抜け出すことが出来ずに居た。何を目指しても、悔しいかな自分は限りなく意味の存在でしかないことを思い知らされるだけだ。スキームそのものの転換がなしえていない。保留し続けてきたツケだ。どうしても、意味を放棄することが出来なかった。
人間は、死後の世界が解らないということで、様々な問題を保留できている曖昧な存在だ。おそらく、自分自身もそうであると思う。なので、その後を想定せず、物事を考え生きている間の事象の枠内で問題を解決しようとする。宗教や信仰のスキームはこれとは違い死後の世界や別のナニカに担保されているため、常人からは考えられない「生き方」が可能になる。それは、自爆テロであっても、マザーテレサであっても常人ではないという点で同じだ。彼らにとっては、生きている間のことは死んだ後のことの一部だったり、ナニカの「ついで」でしかない。けれど私には信仰などないから、死ぬまでの限定的な条件下で物事を考える他ない。選択肢が少ない中で、生きている間の問題を処理しようとしてしまうために、論理の破綻が訪れるのも当然ではあるが、宗教のようなスキームは自分には採用され得ない。
「生きていること」が何かということには、「生きていないこと」が想定されて初めて明確になるのに、人間は「生きていないこと」を知り得ることができない。「生きていること」の範疇でそれを考えること自体が論理の破綻であり、「人の命は地球より重い」とかいうアホなワードと同レベルであるということも解る。同じレベルで破綻している。けれど、そうせざるを得なかったのは、自分が意味の存在であったからだと思う。
もし、一回死ぬことができるサービスがあれば、自分はそれを受けるだろうかと考えたら、やっぱりまだ無理だった。死ぬ事で今の全ての価値が変わってしまうことが耐えられないからだ。保留されているものが明らかになることが恐ろしいし、それに対応してその後もう一度生きる自信がない。それを思うと、鬱になりかけても小康状態に戻す事はできる。が、だからといって問題が解決するわけでもない。
この限定的な状況の中で、何を生きることとするか。そろそろ、限界だな。
自分が生きていることには何の価値も理由もない。花が咲いて枯れていくのと同じように。その明前とした現実を突きつけられるのは本当にしんどい。人間以外の動植物が生き生きと生きていられるのは、彼らに言葉がないからだ。本当に、言葉という発明は人間の最大の矛盾だと思う。小さな生と死を繰り返しながら、肉体的にも矛盾した論理のバランスをとり生命を保つ生命体である人間という種が、言葉という意味でもって生きていることを明確にすることは矛盾にしか行き着かない。
限定的な状況の中で、なんとかしようと考えつくものは考え抜いた結果のことなので、方法そのものが誤っているのだろう。宗教や何かそれ以外の信仰がある人以外の「生きている意味」なんて全て論破できるだろう。それを他人に行うことはないが、自分自身に対して行ってきて、論破しえないロジックを探して生きてきたわけで、それをずっと探しているだけの人生であった。意味で意味の範疇外のことに挑んでいることは理解していたが、感情がそうはさせなかった。生きているということを感じたかったのだろう。ということは、生きているということが感じられなかったのだろう。トランスとかクスリとかセックスとか殺人とかそういう強度のあるものも、意味がベースにあったらずっとやってないと意味がないだろうし、ずっとやってたらそれは強度が弱まり日常になるのだろう。対処方法がより不可解なものにしか希望を見いだせない。超心理学学会にでも入るか出家でもするか。怪しい新興宗教にでも入って、どんなロジックで私を洗脳するつもりなのか味わってみたい気もする。全て論破する自信があるのが悲しい。
自分が、宗教とか社会学とか心理学が幼い頃から好きだったのは、自分が生きていたいと感じたかったからなんだろうと思う。そして、多くの人がそういう気持ちになっているように見えるものに興味を持ったからそういう結果に鳴ったのだろうと思う。けれど悲しいかな、自分がその一員になれることはなかった。私はずっと洗脳されたい。自分は生きているのだと。自分には生きている理由があるとか、自分には生きている価値があるとか。自分が死んだら困る人が居るなんていうのは、論外だ。自分が居なくても仕事も会社も経済も回るし、自分が居なくても残された人はそれなりに生きていくことは可能であるということは、周りの人の死で証明されている。重要なのは、自分自身がどう捉えるのかのみだ。そうすれば、何にだってなれる。世界は自分のものなのに、自分でどうしようもできなくなっていることが問題で、本当にどうしようもないかもしれないと諦めかけている点が一番の問題だ。
ここんとこ、1人暮らしを始めたことをきっかけに、そういう当たり前の事態に直面せざるを得ないが、そんな大テーマを今の自分に解決できるはずもなく。今まで私は何をやってきていたのだろうかと、疲れるだけ疲れるしかない。生活をしていかなくてはという義務感だけが、小康状態に戻しているだけの、本当に生ける屍である。
てゆーか、こんな言葉しか出てこないことがもう限界ということなのかもしれない。もう、新しい文法すらない。残念なこと極まりない。もはや書いていることが、この状況を記録しておくためだけにある。記録しておかなければならないと思うのは、何かのヒントになるかもしれないという今までの方法論の枠内のことでしかない。けれど、本当に記録でしかなく、記憶を圧縮するような自分の言葉でないことがどうしようもない。この残念な気持ちを表現できる言葉が自分自身にない点で、本当にヤバイなと思う。多くの人の表現が、その人がどこに居て何を言っているのかが解るようにはなったところで、その後に一体何が残されているのかと言えば、こんな何もない世界なのだ。
とりあえず、6日に会う唯一こういうことを相談できる友人に、一度相談してみようと思う。
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀と滑った
後ろの正面だあれ?
目の前に大きな車が横切っていても、車にはねられそうになっている我が子を助けに飛び出してしまう母親のように。
人間は、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる。
マジックとは、観客を一点に集中させることにおいて成り立つ演技や、催眠術。観客を魅了するため、マジシャン達はその技を磨き、披露する。その意図が、観客を魅了するため、でなくなれば、詐欺や人を騙す事とと同じロジックだ。ときたま、
自分は騙されているのではないか。
という気分になる。特に、自分が一生懸命になればなるほど、そういう気持ちになる。特定の何かや誰かに対して、というのではなく、周りの全てに対してそんな気持ちになる。自分が生きていることすら。だから私はSFが好きだ。実はこれは、私という人間が生きてこういう出来事があり、というプログラミングに過ぎなかった、というようなオチなら良いと思う。はるか数世紀かなたの冷凍保存された肉体の脳みそに刺された電線から流れる電流が呼び起こす科学的なプログラムであれば良い。もっとハッキリとしたものが欲しい。何かを盲信することができれば、こんな気持ちからは解放されるに違いない。
神も、愛も、名誉も、信じることができなければないのも同然だ。唯一、「ないのも同然」でないものは、財産しかないが、貨幣経済を信頼できなければそこに価値も持てない。現代の貧乏人が散財するのは、インカムが少ないということよりも、金を信じていないからだ。彼らは別の何かが欲しいのだろう。収入が少なく餓死してしまうような状況なら、金でもなんでも信じて欲しがる事が出来るのだろうか。
死にたいとかいうわけではなく、それすらも邪魔くさい。
生きてることがこんなに邪魔くさくなったのは初めてやな。
もう長い間こんな気分のままで過ごしているのがめんどくさい。
めんどくさいのが頂点に達しているのがどうしようもない。
嗚呼、邪魔くさい。なんだこの既視感は。
ショートしはじめている。
それを、他人事のようにみている。
世界の端。
超える事の出来ない壁。
打ち付けてた頭が埋まり込み
私は今世界を縦にみている。
歪んだ価値観を必死に自分のものにしようとしている彼女。
話を聞いてもらうことすらできない私。
過ちかもしれないという未知との遭遇とは異なり
確信的に誤りへと進み、亡霊を自ら背負い込む。
脳みそが何か大きなものに踏みつぶされたような痺れ。
圧倒的な能力の限界を感じる。
可能性を否定しないことだけで進んできたのに
それを徐々に奪われている。
平日の朝に鳴るアラームのように定期的に。
日常に埋没しようと自動的にバッジ処理を行う機械の如く。
あえて向き合うことをやめ、吸収されたがっている。
すべてなかったことにして、まるでもとからしかるべきであったかのように。
私はおそらくこの世界と決着を付ける事が出来ない。
なぜ自分をこんな箱に入れようとしているのかが解らない。
一体何を恐れてそうしているのか。
痛みすら感じなかった自分に本当に驚きを禁じ得ない。
これは一体、誰の命なんだ。
これが単に老いであれば良いと望む。
しかしそうではないというのが解る。
けれどこれが何なのかは見えないようになっていた。
気が付いた時にはドールハウスに入っていて
私はそこでただの椅子としてディスプレイされていた。
人の形ですらない。
まじで一人でどっか行きたい。