マチヅクリ

どくたーくにのblog

HOME > おでかけ・旅 > 沖縄のおはなし > 竹富島で御嶽に入っていって、人間とカミサマの接し方の原始の形を感じてきた

竹富島で御嶽に入っていって、人間とカミサマの接し方の原始の形を感じてきた / どくたーくに

おでかけ・旅 > 沖縄のおはなし

昨年沖縄に行った際には、
ムラやマチの仕組みの違いに大きな衝撃を受けた。

特に竹富島で感じたカミサマ感はなかなかのものだった。

まちなみはもちろん興味深いものであるが、スンマシャーやニーラン神石などの信仰と空間とが絡みあう様子に酔ってしまった。
中でも強烈なインパクトを放っていたのが、御嶽の空間である。

写真にある鳥居のようなものが森に入る入り口にあるが、本州の神社のそれとは意味合いが違うように感じられる。

中へ入っていくとわかるのだが、そこは何もない空間なのである。
ご神体や偶像もなく、構造物もない。
木の袂に小さな切石があるのみで、森の中のただの空地とも見て取れる。
でも、その「何も無いこと」が大きな意味を持っている。
そこはカミサマと触れあうための空間なのである。

あの岡本太郎も、沖縄を訪れた際に最も感動したものとして御嶽を挙げており、何の実態も持っていない空間が、神の降る場所として大きな意味を持っていることに注目していた。

写真にもあるような屋根付きの建物や鳥居などは、原始の形の中では存在していなかったのだろう。何もないカミサマの降る空間のみがあればよかったと考えられる。
長い年月を経る中で、カミサマへの思い(信仰)がそうした構造物を設置させていったのだろう。
それゆえに空間の本質的意味からいえば、これらの建物や鳥居などの目に見えるものは、あまり重要な意味を持っていないといえるのである。

このことは日本古来の神社も同じものだったと考えられる。
鳥居や本殿などの目に見えるものは、信仰の本質的意味を持っていないのではないだろうか(カミサマに触れる場所の広告機能は有しているのだが)。
そうした原始の信仰形態を有する事例としては、奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社がある。背後の三輪山自体を御神体としており、本殿が存在していない原始の形態を持っている。
マチ(にんげんの暮らす空間)とカミサマの空間の境界に位置し、ヒトがカミサマに接するポイントとなっているのである。
こうした原始の形態を保つ神社は少ないとはいえ、神社の立地(里と山の境界など)などからも、そうした本来の信仰への影響を見てとることができる。

つまり竹富島の御嶽という空間で感じたものは、沖縄独特の物のようで、実はかつては自分たちの周辺に当たり前のように存在していた、本来の人間(マチ)とカミサマの関係の原点であり、実は原始の普遍的な形態だったのである。

御嶽の森に入っていくと、半そで短パンの格好でも暑いくらいの気候に関わらず、なにか背中に寒気を感じるような瞬間が何度かあった。
何か空気(けはい)の違いが感じられるのである。
カミサマに触れているという意識が頭にあることで、風の音や葉が揺れる音などが、何か生命体の気配を感じさせていたのである。
島に来る前に、キジムナーという沖縄の妖怪の話を聞いていたのだが、そんな伝承が生まれるのも納得できた。
そして、内部の写真も撮影したのだが、神聖な空間ゆえにアップロードするには気が引けてしまった。
土地でカミサマと暮らしてきたニンゲン以外が安易に荒らすべき場所ではないように感じる。

自分の地域のカミサマを改めて見直してみよう。

2007年7月2日(月) at 21:20